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朝からのラジオ体操は疲労度を増した。カラッと晴れた言うなれば、すがすがしい朝だったが、体がついていこうとしなかったのだ。隣りの和樹はというと昨日のことはどこへやら栄養ドリンクを飲んだみたいにまさに元気ハツラツだった。隣の歩美もこれまた同様にエネルギッシュにラジオ体操をこなしている。いつもの僕もこんな感じなのだが夕べ見た夢がこうさせたのだ。夢は悪夢だった。どこからともなく昼間、見たあの男が登場し追いかけてきていた。手には、夕食の時に母ちゃんが使っていた果物ナイフを持っている。

勿論、カバーは、はずしてあった。僕は必死になって暗闇を走った。どれだけ早く走ったとしても、まるで油の上を走らされているようで一向に速度が上がらず、空回りをしている。後ろを振り返ると男との距離がだんだん短くなってきている。

十m、七m、五m。

僕は足を高速フル回転させた。四m、三m。

全身から玉のような汗がほとばしり、心臓がバクバクと音がしているのが感じとれる。

「誰か助けてくれ。」

誰にも伝わらないと判ってはいたが、僕は声にもならない声を搾り出していた。

二m、一m。

服に触られた感触があり、後ろを見た瞬間、ぐいぃと強く手繰り寄せられ、男はまさに天高く振り上げたナイフで僕の頭上目掛けて振り下ろそうとしていた。

絶体絶命のピンチ。

「やめろぉ〜〜あぁ〜」

朝もやにつんざく雄たけびとともにハッとして目が覚めた。

僕は手の平に、じっとり汗をかき、シーツを両手で強く握り締めていた。

母ちゃんが、あんな話をするからだ。

当初、僕の中では、変な人という男のイメージがあったが、今では悪夢による相乗効果で完全に殺人者という位置に置き換わっていた。疑い出したら、とことんまで疑い出したくなる。あの男なんじゃないのか?僕の自転車から、サドルを盗っていったのは・・・

昼になると、僕たち二人は学校のグランドにいた。歩美は用事があるとの事だったので誘えなかったのだ。僕と和樹は、関係者以外立ち入りを禁ず。という柵を乗り越え、だだっ広いグラウンドの中央に意味なく腰を下ろしていた。ここにいると、何をしている訳でもないが、妙に気持ちを落ち着かせることが出来た。理由は、関係者以外が立ち入ることが出来ない空間にいることが嬉しいからだ。ここだけが異空間で、このエリアだけ守られている気がするのだ。

校内の木々には、無数の蝉がとまりジィージィーと鳴いているのが、夏真っ盛りを感じさせる。

「ねえ、兄ちゃん。昨日のおじさん。誰だと思う?」

「殺人者。」

勿論、僕は即答。

「兄ちゃん、何でそこまで飛躍するわけ?なんかあのおじさんには冷たいよね。」

まさか母ちゃんが話してくれた事件、そして悪夢のおかげで、こういう考えになったなんて言えないだろ。どーせ単純だよ。俺は・・・

「でも、あのおじさんが怪しいことには間違いのないことだ。和樹は、何だと思うんだ?」

「う〜ん。そうだねえ〜。借金取りとか。」

「おまえ、最近、父ちゃんが金使い荒くなったように見えるか?家には、真っ先に帰ってくるし車だって中古を、もう十年も我慢して乗ってんだよ。」

「じゃあ、愛人がらみとか。俺の女に手をつけやがって。といって怒ってくるとか。」

とても小学五年生の子供に思いつく発想ではないのだが、それもあり得る。

「でも、俺たちの名前を知っていたんだよ。何もそこまで調べる事ないじゃないのか?」

「う〜ん。わかんないや。」

結局、元の木阿弥である。

太陽はちょうど僕たちの頭上にあり、日差しが燦燦と降り注いでいる。気温も今日一番の最高潮に達し、僕たちの体力を奪おうとしている。ふと、和樹を見ると赤い顔をして、フーフー言っている。うだるような熱気が僕たちの全身を包み込んでいた。降水確率は、今日も0パーセント。昨日と、さして変わらず蒸し暑い一日となっている。

「帰ろうか。」

僕たちは、束の間の安全地帯に別れを告げ、その場を離れることにした。

よくもこんな暑い日差しの中、何もせずジッとしていられるものだ。僕は男の行動を思い出し、関心せざるを得なかった。僕たちは来た道を引き返し、関係者以外立ち入りを禁ずの看板のある柵に足を掛けた。暑さのためか頭がボッーとしていて、ナカナカ行動に踏み切れず、何度も何度も足を掛け損なった。まるでそれは、安全地帯の枠外から踏み出そうとしている僕たちを無理にでも、引っ張って守り抜こうとしている天からの暗示を意味しているかのように思われた。

そしてどうにか僕たちは柵を乗り越え、その場を離れようとしたまさにその時だった。

「やあ。昨日はどうも。」

急に斜め後ろから声がして、僕は振り向いた。あまりの驚きに口から心臓が飛び出そうだった。そこには、ちょうど茂みから出てきた昨日の男が立っていたのである。

茂みから出てきただけなのに何故そんなに驚くのか?不思議に思うかもしれない。

なぜなら、公園やら神社であった時の男と明らかに違っていた所が一つだけあったのである。その違っていた所。それは男は右手にナイフを持っていたのである。あれは確か僕の家にあった果物ナイフ。母ちゃんが事件を話しながら持っていた奴だ。なんで持っているんだ?男は、僕たちがナイフに驚いているのがわかったらしく、すばやくポケットからカバーを取り出し、ナイフを収めて、内ポケットに入れ、次のように言い訳した。

「いやぁ〜この辺は蚊が多いねえ〜。木の枝がすごくてね。」

相変わらず、この前、着ていた紺のスーツとネクタイは変わっていなかったが、茂みに今までいたらしく、メタセコイアの葉やら、蜘蛛の巣が、いたるところに付着していた。いかにも茂みに隠れて僕たち二人を監視しているかのようだった。

あまりの怖さに僕たちは一歩も歩けない状態でいた。

「殺人・・・」

和樹が蚊の鳴くような、か弱い声を押し出した。みると、今にも泣き叫ばんとする寸前で、目に大粒の涙をため、我慢している。

「えっ?何?今、何て言ったの?聞こえな〜い。」

男は、耳に手をやり身振りを大げさに努めて明るく振舞おうとしていた。声のトーン。

声のリズム。全てが、昨日までの男の声とは違っていた。まるで別人の声がそこにあるといっても、差し支えなかった。

「まあ、いいや。はい、これ。」

男は僕たちのペースとは別に、何でもかんでも自分のペースで進行させ実践しようとしている。みると、以前、手品で出したブロックチョコレートが二つ、手の平に乗っていた。

「結構です。知らない人から、あまり色んなものを貰いたくないので。」

僕は、すかさず断った。それを聞いた瞬間、今まで微笑んでいた男の顔から、急に笑みが消え、般若の面と化した。眉間に皺が寄り、こめかみの血管が素早く脈動し始め、浮き出た筋目が、次々とその根を広げていった。するどく突き刺すように僕を睨みつけ、喉の奥から声のようなものを吐きかけたかと思うと、男は唇を震わせながらこう言ったのだ。

「何だとおぉ〜?こらぁ〜〜。貰えるってものは、素直に貰っておけばいいんだよ!ちっ!何が結構ですだ!何が知らない人から貰いたくないだ!ふざけんじゃねえ!あまりふざけたことばかりぬかしてると、そのうち痛い目みるぞ!坊主!!わかったか?」

それは今までにその男から聞いたことの無い更にドスの効いた低い声だった。こんなにも一人の男からトーンの違う声帯が作れることが不思議とさえ思ってしまった。明らかに、昨日の男とは全く違う豹変した男がそこにいた。

そう言うと無理やり僕たちの手にブロックチョコレートを、ねじ込むように押し付けた。

「お前は、これで、お前は、これな!いいか!」

僕は怖さのあまり、膝がガクガク震え出した。

どうしよう?この男は本当に殺人者かもしれない。下手に騒いだり、反抗するとたちどころに内ポケットに忍ばせてある果物ナイフで僕たちに襲い掛かかってくるかもしれない。

「ちょっとこっちにおいでよ。いいもの見せてあげるからさ。」

また弾むような声に変身。この男の中には、どれくらいの声域があるというのだろうか?男は手招きをして軽やかに歩き僕たちを、どこかに連れて行こうとしている。

僕は貰ったブロックチョコレートをズボンのポケットにしまう振りをしてみせ、防犯ブザーがないかポケットの中を探ってみた。防犯ブザーは、どこにもなかった。そういえば学校のカバンにつけてあったことを思いだした。母ちゃんが[何があるか判らないから、ポケットにいつも防犯ブザー入れておきなさいよ]と言っていたことを思い出し、とても悔やんだ。

僕たち二人は逆らわず付いていくことにした。

「全く、何が関係者以外立ち入り禁止だ。笑わせんじゃねえよ。やりにくいったら、ありゃしねえぜ。」

男は何やら独り言を言いながらスタスタ歩いた。

どこへ連れて行くんだろう?男は極力、人毛の無いほうに、無いほうにと進路をとって僕たちを誘導した。途中、行きかう人、すれ違う人に会ったら、迷わず救いを求め、助けて貰おうと僕たちは考えていた。すぐに、それは甘い考えであることに気づかされた。全然、人に会わないのである。男の計算しつくされた計画に僕たちは見事に乗せられていた。

僕たちは、学校から遠く離れ街路樹のプラタナスの並木道を通り、川沿いにある側道を歩かされた。しばらくいったところに、農道があり、その先はブナ、ミズナラ、カエデといった広葉樹の森へとつながっていた。言われるがまま、その道を渡った。その道は、車一台がようやく通れる道で、この先の廃墟へと通じる一本道になっていた。僕たちの間では、幽霊道と言われ廃墟に関しては幽霊屋敷と呼ばれていた。そこはちまたでも有名な心霊スポットとなっていた。その一本道を十分も歩いただろうか?前方に廃墟が姿を現した。その廃墟は、うっそうとした森に密かにそびえ立つといった感じで大きな急勾配の切妻屋根を持っていて、建物表面にはスクラッチ模様を施したタイルが敷き詰められ外壁を覆っていた。外観はジョージアン・スタイルという様式で左右対称のシンメトリーで構成され玄関の両側にあるさびれた装飾柱、割れた窓ガラスが剥き出しになった左右にある出窓が、その特徴を表していた。

「いやぁ〜きたきた。待ってましたぁ〜。」

男は何かを待ち望んでいるようで、廃墟を目前にした途端、童心に戻ったみたいだった。

僕には男が悪魔に見え、喜ぶ姿が、今から生贄を捧げることの出来る彷彿とした幸福感を味わっているように映った。

その廃墟は二階立ての洋館で、一階に入ると、まず真っ先に目に飛び込んでくるのは二階に通ずる螺旋階段で何ともゴシック様式の重みを放っていた。僕たちは最初その螺旋階段に登るのを躊躇った。登ったら、もう終わりのような気がしたのである。完全にこの男から見ると僕たちはカゴの中の鳥である。しばらくの間、躊躇っていると、[おいっ]と低い声がして、僕達は男に体を後ろから強く押されていた。その後、僕たちは螺旋階段を登り、二階へあがった。正面に行くまでの両脇にそれぞれ二つずつのドアがあるのを確認できた。床は板張りである。僕たちは一番奥の右側の部屋に通された。中に入ると、あたり一面、蜘蛛の巣が覆いつくし、床には割れたガラスの破片が散乱し、男が飲んだであろうビールの空きビンが十本ほど転がっていた。中でも一番目を引くのはブールーシートに包まれたものが中央にドデンと置かれていた事だ。ちょうど人一人が寝ているといった感じで、しっかりとそれはブールーシートに包まれていたのである。なんか嫌な感じがする。男は、お構いなしに蜘蛛の巣を払いながら小走りに部屋の奥まで行き、持ってきたカバンの中から、ろうそく数本を取り出し、一本一本に火をつけては、部屋の片隅にセットしていった。ようやく待ち望んだことの出来る喜びを表現できるといった感じで、不適な笑みを浮かべては、ろうそく一つ一つに火を灯していった。部屋の片隅にそれぞれ一本ずつ、中央に一本の合計五本を備え終わると、男は部屋の中央であるブールーシートに包まれたものの横に歩み出て、僕たち二人を近くに集め、和樹と僕、それぞれの肩に手を置きながら静かにこう言ったのである。

「今から、儀式を行なう。」

ピン一本が落ちても、きっと大きな音に聞こえた事だろう。心臓からの拍動を意味する血液の激流音だけが厳粛な空気の中、周りを取り囲み、無意味に聞こえていたのである。身の毛もよだつとは、まさにこの事。静寂の中の一言であったが、僕たち二人には、今から執行されるであろう惨劇に身も心も凍りついていた。突然、男が叫んだ。

「ウッヒャッヒャッヒャッ」

「キャーヒャッヒャッヒャッ」

そんな状況を知れば知るほど男は喜びを覚え、男の奥底にある狂気に油を注ぎ、きちがいじみた奇声を発し発狂の度合いを増幅していった。まさにヘビードランカーと同じである。

「キャーヒャッヒャッヒャッ」

自分が今、この空間における一切のものに支配が出来る悦び。

湧き上がる気持ちを男はシャウトする事と跳びあがる事で表現していた。

「ギャーヒヤァッヒヤァッヒヤァッ」

奇声も次第に荒々しくなり、もはや手のつけられない獣の咆哮と化している。

この一角の頂点に自分が君臨できる事に男は快楽を味わっている。床に置いてあったバケツを無造作に引っつかみ、中にぎっしり詰まっている花びらを部屋中にバラ撒き床一面を敷き詰めようとしている。男のボルテージが最高潮に達した、そんな時である。

「誰かいるのか?」

一階のドアの開くギーという音とともに、その声は発せられた。

まるでギーという音が全ての音を擦り潰したと言ってもよかった。

それは今まで発狂していた男にとって、一気に狂気のボルテージを下げるものとなった。

「しぃっ!」

男は僕たちに向け、すぼめた口に人差し指を素早く運んでいた。

束の間の静寂が訪れた。どれだけ待っただろう?僕たち二人には、その時間が何時間にも感じられた。

「二階にいるのか?」

その声の主は、今まさに確かめようと二階に上がろうとしている。助かったっー。僕は心の奥底で、そう呟いた。

「ちっ邪魔が入りやがった。お前ら、ここでじっとしているんだぞ。動くなよ。少しでも、動いたら、殺すからな。いいか?俺の言うことがわかるな?」

眼光鋭い男のまなざしが、僕たち二人を射抜いていた。とても小さくて低い声だったが腹の底から出ている凄みのある声に、僕たち二人は、気を失いそうだった。

男は、急いで部屋から出て声のする方に歩いていった。暫くしたら、素っ頓狂なほど明るくおどけた声が、静寂を打ち破った。

「いやぁ〜誰かと思ったら、おまわりさんじゃないですかぁ〜?びっくりしたなぁ〜。脅かさないでくださいよ。もぉ〜。どうしました?巡回ですか?はっはっはっ!」

先ほどの低い声とは、がらりと変わり男の声は高く愛想のいい声へと変貌していた。ん?今、確かおまわりさんって、言ってたよな?おまわりさん?やったー。僕と和樹は二人、その場で抱き合って喜んだ。これでようやく僕たちは助かった。完全に助かったと言えるであろう。ほっと僕たちは、安堵のため息をついて、胸を撫で下ろした。

「君は、一体ここで何をしていたんだ?」

警官の問い詰める声が聞こえてきた。

「私ですか?私は不動産屋を経営しています佐藤と申します。先日、ここの物件の事でお客様から問い合わせがありまして、それがすぐには即答できる問い合わせではなかったので、実際にここを見にきたという経緯がありまして・・・」

よくもそんな嘘をシャアシャアと言えるものである。

「君、ひとりでか?」

うさんくさそうに問う警官の言い方に僕たちは、思わず笑い出しそうになった。

警官は、この男を疑っている。声のトーンが、全てを証明していた。

おまわりさん、しっかり。僕たちは、そう心の中で呟いた。

「はい。」

いかにも男がにこやかな顔をして、もみ手をしている情景が頭に浮かんだ。

「ほんとうかぁ〜〜?」

警官の声には完全に、確実に疑いの気持ちが入っていることを、その声を聞くからに伺い知れる形となった。これで、絶対男を野放しにはしないだろう。するわけがない。

「いやだなぁ〜おまわりさん。私が、こんな所で嘘を言ったって、仕方ないじゃないですか。そうでしょう?」

しばらくの静寂が訪れた。

どうやら、声の距離間からして、二人は螺旋階段の中段あたりで、話しているみたいだった。二人が話し込んでいる隙をみて、逃げようと思ったが、逃げ道は、どうしても螺旋階段を通らないことには脱出出来なくなっていて、警官の健闘を祈るしかなかった。

「わかった。あまり暗くならないうちに、帰るように。この辺は、暗くなると、道の街路灯も何も点かない状態になるからな。」

「ああ、どうも。それは、ご丁寧にありがとうございます。」

え?今、何ていった?日本の警察ってこんなに素直なの?もしかして帰っていくの?嘘だろ?あんなに、疑り深い言い方していたじゃないか?

それは、ないだろ。どう考えても、不自然だろ。素振りだけして帰っていくなよ。しっかりとバッターボックスに入ってホームランかっ飛ばしてくれよ。僕たちは、ここにいるのに。足音が下へ向きかけて動こうとしたまさに、その瞬間。

今まで僕の隣りで震えていた和樹がスッと立ち上がったかと思うと部屋から飛び出し、大声で警官に向かって叫びながら走っていった。

「おまわりさん。助けてぇ〜。僕たちは、ここだよ。僕達は、誘拐されたんだ。その人は誘拐犯だよ。つかまえてぇ〜。逮捕してぇ〜。」

「このくそがきゃぁ〜〜」

急に変色帯びた声が上がったかと思うと、激しく物にぶつかる音が聞こえ、二人の男の取っ組み合う声と同時に互いに殴り合っている音が聞こえた。すぐその後、螺旋階段を転げあう音が聞こえ、最後に物が下に落下した音が聞こえて音がしなくなった。

静寂が周りを包む・・・

あっという間にノイズが次から次へと繰り出された後は一瞬にして静けさが到来していた。

死闘はどうやら終わったようだった。どうなったのだろう?

静寂が訪れていたが何とも不気味さが残る後味の悪い静けさだった。残響がまだ耳の中で鳴り響いている。僕は血の凍る思いで固唾を飲んで格闘の成り行きを待つしかなかった。恐怖による気持ちの萎縮によって戦いの結末を見届けに行く事が出来なかったのである。どれくらい時間がたったのだろう?かなりの時間が経過したように思う。和樹は一体どうなったんだ?僕は、その場から動けずただひたすら両手を合わせ祈るしかなかった。

暫くした時である。

やがて階段を登るコツコツという音とともに、静寂が打ち消された。その足音は、フラフラとしたおぼつかない足音ではあったが、廊下にくると板張りの地面をキーキー軋ませる程しっかりと強く踏みしめながら、こちらの部屋へと近づいていた。やがて、ドアの前で足音が止まり、ギィーという雑音とともに、ゆっくりドアが開いた。

僕は、その人物を見た瞬間、絶望の淵に叩き落とされた。あの男が、血だらけに、なりながら部屋の入り口に立っていたのである。

左肩に警官を担いでいた。そして右脇には胸を一突きされナイフが刺さったままになっている和樹を抱かえているではないか!動かない和樹の目は見開いたまま白目になり胸から血液がポタリポタリ滴り落ちていた。それを見た瞬間、僕は、とてもこの世のものとは言い表せない声をあげ、その場に泣き崩れた。

めまいを覚えるとともに、軽い意識低下を伴った。

男は悪の権化以外の何者でもなかった。

「どうしてだ!どうして和樹を殺したんだ?この外道!」

僕は、こらえきれずに涙ながらに、男に向かい泣き叫んだ。

「どうせ、遅かれ早かれ、お前ら二人は死ぬ運命だってことさ。和樹は、それが早まっただけのこと。俺が、こいつの天国行きを、早めてやったのさ。へっへっへっ。兄貴として、弟を早くに手向けてやった俺に感謝しろよ。」

と言いながら、男はうす笑いを浮かべ左肩から警官をドッカと下ろし、右脇からまるで犬の死骸を投げつけるように和樹を無造作に床へと放り投げた。

「和樹ぃ〜」

僕は、地面に叩きつけられた和樹の元に素早く駆け寄り、強く抱きしめた。

「殺せ。どうせひと思いに俺も殺せ。殺してみやがれ。」

僕は男に向け大声で叫んでいた。怒りから更に一層の憤怒へと変わっていた。

「おいおい、あせるなって。楽しみは、ゆっくりと味わいたいじゃないか。お前には、ゆっくりと天国への階段を登って貰わないと。」

というと、男はゆっくりと深呼吸をしてみせ、儀式の作業に取り掛かろうとしていた。

「本当に困ったもんだぜ。このおまわりのくそ親父のせいで大切な儀式が遅れちまった。まあいい。仕方ない。こいつもお前らと同じように一緒に神に捧げる。捧げるものは多いに越した事たぁねえからな。先客もいる事だし・・・へっへっへ。」

そう言うと男は包まれていたブルーシートを端の方から引っ張り挙げた。それは中から転がるように出たかと思うとちょうど狙いをつけていたかのように部屋の中央に上手いように納まった。それを見た瞬間、僕は全ての終わりを感じた。中から出てきたもの。それは山田老人の死体だったのである。

この男は最悪であり、最低な奴だった。自分の奥深くに住む残虐な心を満たせばそれでいいというのか?それがために、周りの罪のない人たちが犠牲になっても構わないというのか?僕は断じて許さない。

ふとみると、和樹の胸にナイフが刺さったままになっているのに気がついた。男の方に顔を向けると、男は、こちらに背を向け鞄から何かを取り出し中央のろうそくに向かい装飾しようとしている。チャンスだった。僕は和樹の胸に刺さっていたナイフを素早く引き抜き、大声で叫びながら男に向かい突進していった・・・

「やあぁ〜〜」

声にもならない声を発し、二度目の朝はやってきた。というより実は、一度目の朝だった。僕は、[待ってろ。兄ちゃんが、かたきを取ってやるぞ。]と何度も連呼しながら虚空に向かい両腕を高く突き上げていた。

ハッと我に返ると、隣りで不思議そうな目で僕を見ている和樹の姿。

どうやら、ここは家らしい。ん?ちょっと待て。家?

えっ?何?僕は何でこんな所にいるの?

「兄ちゃん。大丈夫?大声で叫んでいたよ。」

目が合うなり和樹の方から話しかけてくる。

「和樹ぃ〜大丈夫だったのかぁ〜」

僕は和樹を思い切り強く抱きしめた。

「痛い。痛い。離してくれよ。何々だよ。」

と言いながら、和樹は僕から遠ざかる。

「本当に大丈夫なんだな?」

「だから何がさ?」

顔を顰めた和樹が僕に言う。

「胸痛くないのか?死んだんじゃないのか?」

「はあぁ?」

「母ちゃん、兄ちゃんが何か変だよ?」

「放っておきなさい。どうせ、変な夢でも見たんだから。」

一階から母ちゃんの声。僕の悪夢は、いとも簡単に、まるで何もなかったかのように処理されたのである。

つまり僕は神社から帰った日の夕べに就寝してからというもの一度も目覚めていなかったのである。何だよぉ〜もぉ〜朝からのラジオ体操。悪夢の中、迫り来る男からの逃亡。幽霊屋敷に連れて行かれ男の行なった儀式。警官と男との格闘。和樹の死亡。山田老人の死体。全て夢だったって事?そんなの無いよ。まったくぅ〜これも母ちゃんの以前話してくれた事件が、僕の中でまだしつこい程、尾を引いている表れでもある。十年位、寿命が縮んじまったじゃないのか。もぉ〜。まあ、正夢であったとしても困るのだが・・・

朝からのラジオ体操は最悪だった。また夢なんじゃないだろうな?そっと頬を抓ってみる。

「いてぇ〜」

どうやら現実みたいだ。

自分の中では、またラジオ体操なのかという感覚。もういい加減にしてくれって、言いたいくらいだ。昨晩見た悪夢のせいで、体はへとへとに疲れていた。というか壊れかけていた。夕べの疲れが取れないばかりか、余計に疲れが増幅して眠ったという気がしなかった。体は拘縮しているといった感じで、動きは全く様になっていなかった。今でも現実なのか夢なのか、その境目がよく判らなくなっていて、神経が麻痺しているように感じる。あいにく今日の天気も、清々しい朝という感じの空模様でなく、どんよりと曇りまさに僕の気分と類似していた。隣りの和樹はというと、若さのエネルギーを放射しているという感じでとても元気だった。昨日一日あった色んな出来事を汗によって発散しているみたいだった。こいつは、いつでも、どこでも何度でも元気ハツラツなのである。多分、歩美も和樹と同様こうだろうなと思い、僕は歩美を探してみる。だが今日は体調でも崩したのか、休んでいる。ん?休んでいる?

あれ?一体どうしたんだ?歩美の奴。ラジオ体操に来ないなんて。

いつも張り切って和樹と一緒に前列に陣取り、その体躯を余すところなく大振りに、しかも大胆に回旋させているのに・・・歩美がいないなんて珍しいことだ。

僕は、即座に昨晩見た悪夢が甦った。

まさか、あの男に殺されたんじゃあるまいな?

にわかに僕は、歩美のことが心配で堪らなくなってきた。

そうか、あの悪夢は僕でなく歩美の安否を気遣うが故に見た予知夢だったのかもしれない。

明らかに周りの人と僕とでは、ラジオ体操のテンポがワンクッションずれていた。

そんな事どうでもよかった。こんな時にラジオ体操なんてしてる場合か?はやくこの苦痛でもあるラジオ体操を終わらせたい気分だった。

「和樹、このラジオ体操が終わったら、歩美の家に急ぐぞ。」

「ん?どうして?」

「ちょっと心配なことがある。」

「心配なことって?」

「後で話す。」

和樹は、不思議そうな顔をしていたが、僕の神妙な顔をみると、ただならぬ何かを感じ、それ以上、何も言わなかった。

ラジオ体操が終わると、駆けるように、僕たちは歩美の家に急いだ。

「あゆみぃ〜」

歩美の家に着くなり叫んでみる。いつもより少し早口になった自分がいる。焦る気持ちが隠せない。案の定、ナカナカ歩美は出てこない。何かがおかしい。やっぱりそうだ。思っていたとおりだ。これは何かあったに違いない。いつもなら、もうとっくに出てきてもいい位なのに・・・

「おい、歩美。大丈夫か?中にいるのか?歩美。」

僕は、焦ってドアに近づきドンドン叩いてみる。

やっぱり、待てど暮らせど出てこない。

くそぉ〜遅かった。やっぱり、殺されていたか。ちくしょ〜あの殺人鬼にやられた。

「兄ちゃん、何かあったの?尋常じゃあないよ。」

気が動転している僕を見て、和樹が冷静に落ち着き払って言う。

「うるさい。これが、尋常でいられるか。」

「いったい何があったのさ。歩美姉ちゃんに・・・」

「いいか。落ち着いて聞けよ。焦るんじゃないぞ。何があっても素直に受け入れるんだぞ。」

「うん。僕は、反対に兄ちゃんに落ち着いて貰いたいんだけど・・・」

「気をしっかり持て。いいな。」

「だから、何?」

「歩美はなあ〜」

僕は深呼吸を一つした。同じように和樹も僕につられて深呼吸している。

「こ、殺されたんだ!」

僕は気を落ち着けて、小声でしかもしっかりとした口調で言った。それを聞いた和樹の目がみるみるうちに大きくなる。

その時である。ドアにガチャリと音がしたかと思った瞬間、ゆっくりとドアが開いた。

髪はボサボサでパジャマ姿の歩美が顔を覗かせた。寝ぼけ眼である。

「なあに?」

「あゆ〜みぃ〜、おまえ大丈夫だったのか?」

「いや、大丈夫じゃない・・・」

赤い顔の歩美が、かすれ声で言う。

「いや、大丈夫じゃないか。大丈夫だよ。お前は。」

僕が言う。

「いや、大丈夫じゃないのよ。」

尚も歩美がガラガラ声を強めて言う。

「いや、大丈夫だって。絶対、大丈夫だ。」

僕が諦めずに再度言う。

「くどいわねえ〜。本人が大丈夫じゃないって言ってんだから。大丈夫じゃないのよ。私は、どうやら風邪をひいたみたいなの。」

歩美が、うんざりしながら言う。

「兄ちゃん達、いったい何がやりたいの?大丈夫。大丈夫じゃないって。歩美姉ちゃん、生きてるよ。」

「ほんと、生きてるな。おかしいなあ〜。」

「失礼なこと言わないでよ。私は生きてるわよ。勝手に殺さないでよ。」

死人扱いされた歩美が口を尖らせ反論している。

「だって兄ちゃんが、歩美姉ちゃんは死んでるって言ったんだもん。」

「承君、何を根拠にそんなこと言ったの?」

「うん?いや、そのぉ〜。」

「私をそんなに殺したいの?」

「いや、そんな事ないんだけど・・・その〜」

「まあいいわ。とにかく散らかっているけど、中に入って頂戴。そこでゆっくりと聞いてあげる。」

そう言うなり歩美は、僕たちを部屋の中に招き入れた。

しばらくして歩美の部屋の中では、歩美と和樹が腹を抱えて笑う姿があった。よくみると、二人とも涙を流しながら笑っている。

「しっかし、承君の早とちりも、横綱級ね。」

「兄ちゃん、あのおじさんを見るようになってから、何か変だよ。」

今、部屋の中は、笑い声が埋め尽くしている。でもそんな活気づいた状況なのに、いつ来ても、歩美の部屋は寂しさが漂っている。

それには理由がある。

それは一つの部屋に、歩美のものともう一つ。今は亡き姉の敦子のものが一緒に並べられているからだ。ちゃんと整理されて小奇麗になってはいるが、悲しみが至る所に散らばっていた。歩美のものがある反対側に姉・敦子の机と椅子が当事のまま残されていた。

まるでさっきまで敦子がいたみたいに生活感そのままに本などが置かれてあった。

歩美の机の上には、歩美の母親から敦子の誕生日にプレゼントされた敦子の小型カメラが置いてあった。そのカメラで僕たちは敦子姉ちゃんに公園で遊んでいる所を撮って貰った事がある。そのカメラは敦子姉ちゃんにとってとても大切なものであった。僕は、それを見ると、胸が痛んだ。

「全く承君って、あのおじさんに対して、神経質になりすぎ。」

「だってよぉ〜怪しいとは思わないか?わざわざあんな二百段の石段を登ってきて、俺達に会いにくるんだぜ。」

「そりゃ怪しいとは思うけど、承君は、どうしてあそこまで、あのおじさんに敵意を剥き出しにしているのかしら?どうして、あそこまでそっけない態度をとれるのかしら?その理由が私にはわからないわ。世界の七不思議に匹敵する。」

「・・・」

「いい人そうじゃない。あのおじさん。」

「そうだよ。兄ちゃん。きっとあのおじさんは、いい人だよ。」

「そうかもしれないけど、じゃあ和樹。なんであのおじさんは俺たちの父ちゃんを気にしていたんだと思う?」

「なんだよ。兄ちゃん。またその話?何度聞かれても、僕には判らないよ。」

「絶対、二人の間に秘密があるってことは確かなんだよ。なんとか調べられないかな?

一つでも、何か、あのおじさんの本質がわかるようなことがあれば俺も、あそこまでそっけない態度をとらないと思うんだよ。それまでは、どうも怖くて身構えているんだ。きっとその理由が掴めれば落ち着けるのかもしれない。」

「本当にそう?やめてよ。事あるごとに、私が殺されたとあっちゃあ、いくつ命があっても、足りないんだから。ねえ?和樹君?」

「全くだね。歩美姉ちゃん。」

二人は、尚もケラケラ笑って、いかにも楽しそうである。

そんな時である。僕に、一つの考えが浮かんできた。

「二人を、会わせてみようか?」

「どうやって?」

歩美、和樹の声が合わさった。

「公園に父ちゃんを誘って、偶然にバッタリと二人を鉢合わせさせるんだ。」

「兄ちゃん。それ、グッドアイデア。」

「うん、いいじゃない?承君、それ。」

「だろ?」

「でも父ちゃん、来てくれるかな?めんどくさがりやだし、最近かなり仕事と家族サービスで疲れているみたいだから。」

「強引に誘うんだよ。今日は偶然仕事休みだろ。明日になれば、仕事が始まっちまう。今日しかないと思うんだ。」

「誘うとしたら今日の昼にする?」

「そうだな。善は急げだ。昼十二時に決行する。」

「了解。それ、大、大、大賛成」

「まあ、頑張ってよ。健闘を祈ってるわ。」

「なんだよ。歩美来ないのかよ?」

「今日は勘弁して。クシュン。」

そう言いながら可愛く歩美は、くしゃみをした。そうだった。こいつは風邪ひいてるのすっかり忘れてた。わりい。わりい。まあ、ゆっくり休んでくれ。

それからである。家では、僕たちと父ちゃんの押し問答がくりひろげられた。

うちの父ちゃんは、ただでさえ出不精で、仕事が無いフリーな時間は、ほぼ寝ているという姿しか僕たちは、見たこと無いというヘビー級王者なのである。そんなヘビー級王者も、ここ二週間は大切な休みであっても、家族サービスにあてられ、満足な休憩をしていないことは、充分僕たちも知っていた。かなり手こずるかもしれないとは思っているし、そんなの覚悟のうちだったのである。

「なんで俺も行くんだ?」

「たまには、僕たちとキャッチボールしてよ〜。たのむよ〜」

「いやだね。絶対、行かん。」

「なんでさあ?」

「二人で、やればいいじゃないか?ちゃんと相手はいるんだし。なんで、こんなくそくそくそ暑い日に、しかもこの貴重な休日を、キャッチボールごときに俺様が回さなきゃいけねえんだ。」

「家族サービス、家族サービス」

僕は、微笑みながらソファーで横たわっている父ちゃんの服を引っ張りながら言っていた。

「一週間前、ディズ二―ランド連れて行ってやったじゃないか?今日は勘弁してくれ。」

「たまには運動しないと、このメタボのおなか、どんどん出てくるよ。」

と言いながら、わき腹のぜい肉を一つまみして、プヨプヨしてみせた。

「ねえ。たのむよ。一生のお願い。」

「運動で思い出したけど確か二週間前は、公園行って、サッカー付き合わされたよな?あの時も暑かったよなあ〜〜。死ぬかと思った。その時同様、なんで俺様がキャッチボールごときに借り出されなくちゃならないんだ?俺は、嫌だ。行かない。」

格言うヘビー級王者も、このように言っているのだから、絶対行ってくれないだろうと、普通の人は思うかもしれないが、最初のうちは、この世の中でキャッチボールを作り出した奴を殺すとまで息巻いてはいる父ちゃんだが、五分経過したあたりから、氷山の一角が溶け出し、十分経過したら、氷魂が水面を漂流し始めファイティングポーズをとり、リングサイドから中央に歩み出て行くという単純な所を父ちゃんは持っているのである。僕たちも、そういう父ちゃんの習性を充分知っているので頼む時は、必ず十分ないしは十五分粘るようにしているのだ。

そんなこんなで昼、僕たちはいつもの公園にいた。

中でも、ピッチャーマウンドに立って特に張り切る父ちゃんの姿があった。

父ちゃんは、体内にスイッチがあり、一端そのスイッチがオンになると、エンジンがかかり、完全燃焼するまで頑張るのである。言うなればスイッチが入れば父ちゃんは熱い男なのである。

「くるかな?あのおじさん?」

「さあ?でも何かの用事が俺たちと父ちゃんにあることは、確かだからな。会いたがっているのは、確かだ。」

僕が和樹にそう話しかけたその時である。

「よぉ。ゴールドキッズ。元気にしておるかの?」

急に背後で声がして僕たちはその方向に顔を向けた。

ぎょぇぇっ。じいさん。山田のじいさん。何でこんな所に来たんだよ?

「どぉも。こ・・・こんにちは。」

僕たちは山田老人を見るとぎごちなく会釈をした。

「こんにちは。」

じいさんも会釈すると偉そうに水戸黄門みたいにこの公園唯一の木陰獲得場所である僕たち専用ベンチに座り僕たちをジッと見つめていた。白い髭を蓄え杖を突き、風貌は仙人である。これ以上、庭にボールを入れられては困ると思い、とうとう監視しに来たというのだろうか?そうだとすれば恐るべし執念。

「しかし、暑いのお〜干上がっちまう。お茶でも飲むとするかの。まあもっとも、出がらしじゃがの。ほっほっほ。」

山田老人は、独り言のようにそう言うと暑さに耐えかねて持ってきた水筒のお茶をグビグビと飲んでいた。

「一体、何しに来たんだろうね?兄ちゃん。不気味だ。」

「全くだ。」

ここ最近、僕たちのキャッチボールは何故にこんなにもギャラリーが多いのだろう?

謎の男の次は、山田のじいさんかよ。何か男に見られるよりもまた違った格別の違和感がある。このじいさんに背後から見られていると生気を吸われているような気分になってくる。まさに死神だ。早く自分の家に帰ってくれよ。頼む。僕たちは、そう願わずにはいられなかった。

「今まで僕たちのキャッチボールを見るなんて事なかったのに。何がやりたいんだろうね?しかもあんな所に座って。暑いのに。」

「さあな。いつも家の中にいるから、たまには外に出て散歩でもしたかったんじゃないのか?それか本当に俺たちが庭なんぞにボールを、ぶちかますんじゃないか?と思ってヒヤヒヤしながら監視しているかもな。しかし、この暑い時に出てこなくてもいいのになあ〜」

「えっ?本当にそうだろうか?そんな事、言われると怖くてバット思い切って振り切れないよ。謎のおじさんの出現を期待してんのに嫌な人、出現しちゃったね。」

「全くだ。でもここで待っていると、あの謎の男も其の内、現れるぞ。きっと。」

「いよいよ。バトルってか。どうする?ここで、父ちゃんと殴り合いになり、挙句の果てに殺し合いになったら。」

「おいおい、縁起でもないこと、言うなよ。」

と言いながら改めて、無理やりにでも父ちゃんをここに連れてきたことが正しかったことなのか?僕は自問自答していた。

そのようなことが、全く無いとは言えないからである。あまり思い出したくはないのだが、実に夢の中の男は、残忍きわまりない奴で、ここにいる和樹も父ちゃんも、ましてや山田老人も、その素顔を知っているはずもなく、唯一この僕だけが、知っていることなのである。まあそうなったら、山田のじいさんが仲裁に入ってくれるか・・・いや駄目駄目。あんな華奢な弱っちい老人。仲裁に入れるどころか男に片手でひねり潰されて、あばら骨の一本でも採られて歯の間を爪楊枝がわりにシーハーシーハーされてしまうのがおちだ。あくまでも空想で作り上げたことはいうまでもないが、謎の男が善人であるという証明するものは何もない訳で、人を見たら、悪者と思えというのが、僕の理念なのである。わが弟、和樹という奴は、この僕を不安に陥れる名人なのかもしれない。

「何をヒソヒソ話してんだ。いくぞ。」

と言うなり、父ちゃんが、投球ホームに入ったかと思うと稀にみる剛速球が飛んできた。

「ストライク。」

父ちゃんが、ピッチャー。僕がキャッチャー。和樹が、バッターというポジションをとっている。本来なら、父ちゃんが加わると、歩美が守備に入るのだが、今、ここにはいない。

歩美は今頃、ベッドの中で夢の中だ。

あれだけ嫌がっていた父ちゃんだが、いざ野球となると、たとえ息子であろうが、手加減というものを全くしない。逆に、この熱の入れようが、儚くも舞い散る前の可憐な花の美しさに思えてきて、何とも、けな気に思えてしまう。どうせ明日になれば、筋肉痛になったといってヒーヒー言っているのが予想出来るからである。

頑張れ。サラリーマン。心の中で、僕はそうつぶやいていた。

再度、振りかぶりまたもや剛速球が飛んできた。

「二ストライク」

あまりの剛速球に僕のグローブの中の手がジンジンしている。

この剛速球にして、このコントロール。ナカナカなものである。

だから、僕のような豪腕投手、金田 承が産まれるのである。がはは。

父ちゃんへ返球しようとしたところ、一人の人間が父ちゃんに向かって歩いてくるのが見えた。最初、とうとうあの男が現れたと思ったのだが、今、父ちゃんに向かって歩いてくる男性は、もっと年配にみえ、年にして五十代くらいであろうか?ずんぐりむっくりとした小柄な体格をしていた。どっかで見た事ある。警官の服装?あの顔?そうだ思い出した。僕が悪夢で見た警官、男に刺し殺された人物。まさにその人だった。

「父ちゃん、後ろ。誰か来てるよ。」

僕は歩いてくる警官に向かい指を指しながら言った。

「ん?」

父ちゃんは、後ろを振り返るとその警官との距離は残り五mという所まで来ていた。

何の用だろう?僕たちは父ちゃんに向け走っていった。

「すみません。あそこの茶色の家なんですがね。」

警官はそう言うと山田老人の家を指さした。

「朝から山田さんの姿が見えないと息子さんが連絡がありまして探しているんですが、ご存知ありませんか?」

「えっ〜朝から?朝から姿が見えないというだけで警察に連絡してくるんですかあ〜?」

僕は驚いて思わず大声を出していた。

「うん、そうなんだよ。なんでも週一回、山田さんは、隣町にある息子さん夫婦のところに行っていたみたいでね。孫の顔を見に行っていたそうなんだ。それが今日だったようでね。孫の顔を見ることを生き甲斐にしていたそうだ。何でも家を出る前に山田さんは今からそちらに行くと息子さんに向け電話されていたらしい。いつも電話してくるとすぐに来るのに、今日に限って来ないから変だと。かれこれ二時間経つ。ちっとも待ってみても山田さんが来ない。そこで息子さんは、不審に思い、こちらに来てみた訳なんだ。そしたら山田さんが留守にしていたんでね。もし事故にでもあっていたら?急に痴呆になってどこかに行ってたりでもしたらどうしよう?と・・・それでね。心配になって警察に通報されたんだ。もう三時間経つだろう?きみたち・・・」

「おまわりさん、そんなの心配に及ばないよ。」

僕はその話を途中で遮るとニコニコしながら警官に向かって言っていた。

「ほら。あそこ。あそこにいるじゃないか。」

僕は日陰になっている公園の中にある僕たち専用ベンチに向け指をさしていた。

僕の指の先には、さっきからベンチに座り僕たちを見ていた山田老人の姿があった。

よく見ると頭を下げ、うな垂れた状態で居眠りしている山田老人の姿が伺える。

「承、和樹、ちょっと山田さんを呼んできてくれないか?」

「は〜い。」

僕たちは、父ちゃんに言われ山田老人が座っているベンチまでダッシュしていた。

うな垂れたまま静かに山田老人は眠っていた。みると片手に水筒、もう一方の手に水筒の蓋をだらしなく持ち、腕を下にダラリと下ろしている。飲んだと思われるお茶が口からポタリポタリと滴り落ちていた。

痴呆にでもなっちまったのか?山田のじいさん。

「山田さん、一体どうしたの?みんな心配しているよ?」

僕は、そう言いながら山田老人に近づくと左肩に手を置いてみた。

その瞬間、山田老人は僕たちの反対方向つまり右方向へと体が傾いたのだ。

それを見て僕たちはとても驚いた。慌てて僕は山田老人を手繰り寄せようとした。

勢いもあって僕の力では崩れ行くじいさんの重力には勝てそうになかった。

「あ〜〜っ」

悲鳴ではない何やら自分でも訳のわからない声を僕は出していた。それはとっさの出来事だった。えっ〜こんなことがあっていいのだろうか?嘘だろ?冗談だろ?

いや、嘘でも冗談でもない。山田老人の体は、ベンチから崩れ落ちて転がったのである。

「死んでるじゃないか!!」

思わず僕は叫んでいた。

そう。山田老人は僕たちの前で白目を向けながら、ただの肉塊へと変貌を遂げ、地面に横たわっていたのであった。

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