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警察手帳。僕は以前、テレビドラマで同じものを見たことがある。

その男性はポケットからそれをおもむろに出すなりいきなりこう言った。

「栃木県警捜査第一課の片桐といいます。ちょっと、お話うかがわさせて下さい。」

「一体、何のことですか?」

そんなの勿論、山田老人の事に決まっているのだが明らかに慣れない状況に顔を引きつらせ常日頃では見られない堅くなっている父ちゃんの姿がそこにあった。

刑事は年齢からして五十歳といった所。中肉中背で小柄。ダークグレーのズボンを穿き、見た感じアイロンがかかっていないだらしない格好をしていた。

それは、まるで今から父ちゃんが刑事コロンボみたいな男に逮捕されるシーンそのものだった。

「山田さんは、いきなりあそこのベンチに座ったんですね。そしてあなた方をじっと観察していたと。」

「はい、そうです。」

さっきまで山田老人が座っていたベンチは大勢の警官が来て色々調べていた。

あの後、肝心の山田老人はすぐに病院に運ばれてしまった。解剖にまわして死因を調べるとの事らしい。

「よくこう云う事はあるんですか?」

「私が息子達と一緒に野球をこうやってしている時に見物されているなんて今回が初めてです。無論、息子達がキャッチボールしている時は、どうなのか?わかりませんが。」

「君達どうだい?」

刑事が僕たちに向かい優しく聞いていた。

「いや、こんな事無いよ。初めてさ。おかしいなと思ったんだよね。」

「そうかあ。じゃあ、どうして今回に限りこんな事をしようと思ったんだろうね?思い当たる事、何かあるかい?」

「全然ない。さっぱりわからない。」

ボールが庭に放り込まれるので心配で見に来たのかも?なんて口が裂けても言えない。そんな事、言ったら真っ先に僕たちが犯人扱いだ。

「山田さんが、散歩するのって見たことあるかい?」

「いやあ〜隣町の息子さんの所に行く姿はよく見た事あるけど、それ以外こうやって見るのは初めてさ。」

「そうかあ〜。全然、謎めいて君達には、さっぱり判らないということなんだね?」

「うん。もちろん。」

「何か他にも知っていること何かあります?」

刑事は顔の向きを変え、父ちゃんに向けて話していた。父ちゃんは気を落ち着けて、ゆっくりと話していた。

「私の知っている事でよかったら。もう三年前になると思うんですが、山田さんは奥さんに先立たれて、お一人で暮らしていたことは知っていました。最近は、そうですねぇ〜。どことなく元気が無いなとは思っていましたが。」

「そうですか。山田さんが誰かに恨みを持たれてるっていうようなことって、聞いたことありますか?」

「いやあ〜。聞いたこと無いです。」

「そうですか。はあ〜。いや失礼。思わず溜息が出てしまいました。恨みを持たれてない人の捜査って一番難航するんですよねえ〜。ほら、火の無い所に煙はたたずっていうでしょ?ところで、この辺で、誰か怪しい人を目撃したとかは無いでしょうかね?」

僕と和樹は互いに顔を見合わせた。

「それも無いですね。」

父ちゃんは即答していた。その後、もう一度刑事は僕たちの顔を見てこう言った。

「ふう〜まいったなあ〜。じゃあ、最後に一つ。山田さんは、三時間もの間、一体何処に行っていたんだろうか?まさか三時間もの間、ずうーっと歩いていたとは考えにくいと思うんだ?君達だったらどうする?」

「僕だったら水着があれば、川遊びかな。ないとすると・・・まあこの暑さだから、暑さが凌げる日陰の涼しい所へ行くかな?」

「例えば?」

「う〜ん。急にそんな風に言われても判んないよ。」

「ところで・・・」

刑事は、そう言うともう一度、父ちゃんをギロリと疑り深い目で見ていた。

縮み上がるほどの威圧感があり、僕たちは一斉に下を向いた。無実の者でも犯人にさせられそうなそんな威圧感がこの刑事にはあった。

「失礼ですけど、ここの公園には、いつから見えていたんですか?」

「いや、さっき来たところです。」

「午前中は、どうしてみえました?」

「家で、ずっとテレビを見ていました。」

「それを証明する人いますか?」

「この息子・・・たちです。」

父ちゃんの声が震えている。

「父ちゃんは、犯人じゃないやい。」

和樹が負けじとばかりに大声で言った。

「ごめん。ごめん。おじさんは、別に疑っているわけじゃないんだ。ただこれが捜査の決まった手順なんだよ。任務で遂行しているだけなんだ。誤解したら誤まるよ。ごめん。」

片桐というこの刑事はそう言ってはいたが、その眼光はするどいものがあった。

「どうも、大切なお時間を取らせまして失礼しました。」

「いえいえ。」

全くである。本当は、いえいえと言う状況では全然ない。この炎天下、日陰で話すならともかく、そのまま続けざまに、次から次へという感じで、僕たちは、すっかりゆでだこになってしまった。刑事も、よほど暑かったらしく、ハンカチを取り出しては何度も首筋を拭いていた。日陰に連れて行けよ。その要領の悪さからして、今後、この事件の解決の糸口は果たして見つかるのだろうか?という疑問まで抱かざるをえなくなる。

「よかったねぇ〜。父ちゃん。捕まんなくて。」

と僕が冗談まじりに言うと、

「バカ言え。捕まってたまるか。」

といって、その日の公園での短い遊びは終了したのである。結局、その日、男は公園には現れなかった。

僕は、刑事の[誰か怪しい人を目撃しなかったか?]という問いに男の事を言ってやろうか?と考えたのだが何故だろう?自分でもその理由が掴めず結局言うことは出来なかったのである。あの後もう少し、公園にいたら、男は現れるかもしれなかったが、僕たち自体、容疑者が問われるような詰問を受ける事態になってしまったことに、幾ばくかの憤りを覚えたのである。まあ無理も無い。僕たちが第一発見者なのだから・・・そうなると野球どころではない気持ちになってきて、真っ先に父ちゃんが帰ると言い出し、こうなるといくら僕たちでも引き止める気力ゼロだったため、もう帰ろうという話しになったのである。結局、父ちゃんと男を会わせることが、失敗に終わってしまった。

帰り道、僕らは、家の向きとは逆であったが、山田老人の家が気になり、家の前を通りながら帰ったのである。見ると、家の前に警察の車が止まり、立ち入り禁止の黄色いテープが家の端から端へと伸びていた。いつも入り慣れている門扉には、これまた栃木県警の黄色いテープが厳重に張られていた。僕は、今回の事件とあの男の関係が気にならずにはいられなかった。

もうすでに、その日の夕方にはテレビで公園の事件が報じられていた。

死因はまだ確定していないらしいが多分、毒殺が有力との事らしかった。あの水筒に毒物が混入されていてそれを山田老人が飲んだということらしい。

僕は、父ちゃんが警官に言っていた山田老人のことは勿論、全部知っていた。

遠まわしに話してきたが死んだ山田のじいさんと、僕たちゴールドキッズとの関係は切っても切れないほどの親密な関係にあり、何度、盆栽の鉢を割ったことか?その数は数えきれないほどである。今度から、追いかけてくる人間がいなくなるということが、何とも言えないさみしさを感じる。

その夜、僕と和樹はベッドに横になってもナカナカ寝つけなかった。

「和樹、起きてるか?」

「うん。起きてるよ。」

「山田のじいさんに、誰か特別な恨みでも持っていたんだろうか?」

「それは、無いと思うね。」

「どうして?」

「兄ちゃんも知っているじゃないか。どれだけあのおじいさんがいい人かってことを。」

「そりゃそうだけど。でも、犯行は金品目当ての犯行じゃないだろ。そうなると、じいさんに、恨みを持った人間の犯行になるというのが、状況からして、一番考えられるんじゃないのか?」

「でも・・・」

和樹の言いたいことは、わかる。確かにじいさんは、虫も殺せぬいい人であることを知っているのは、僕が一番よく知っている。盆栽の鉢を割ると追いかけてきて、僕たちの前で説教するのだが、それが本当に怒っているんだか、いないんだかといったような内容で、実にユニークなのである。

「このくそ坊主。もう鉢を割って、何回目になるのか?知っとろうが・・・」

ん〜?僕たちは、じいさんに、その場でいつもしばらく考えさせられた。勿論、そんな事、この僕たちが覚えていること自体無理なわけで、決まって僕たちは、こう質問した。

「ごめんなさい。知りません。何回目になるんですか?」

突然、じいさんは、そんなこと俺にふるなよ。と言わんばかりの顔になって、戸惑うのだが、決まってこういうのである。

「そうじゃの〜。むこうにある大きい盆栽は少ないんじゃが、こっちにある小さい盆栽は、ようけ割っとるんと違うか?」

なんで、疑問詞でこっちに聞いてくるのかが、疑問詞である。詳しい数を言わないところを見ると、あまりこのじいさんの中で、数はどうでもいいことになってるらしかった。なかなか先方も作戦といったものがあるらしく、庭の中の盆栽にはうまく配置されていてあまり割られて欲しくない桜、姫みかんといったものは、公園から奥のところ、常に割られても構わないというもみじ、けやきといったものは、公園から近いところ、どうしても割られて欲しくない黒松といったものは、玄関先の日差しがあたるところという風で、区別していたことを、僕たちは、敵ながらよく知っているのだ。そんな事、とうに調査済だ。まあ何度も鉢を割っているので、それ位は、頭のデータに入っている。

「わしの若い頃はな。戦後で、物があまり無かったんじゃ。・・・」

出た。じいさん得意の戦後の話。これを、し出すと決まって話が長くなるのだ。僕たちの悪童ぶりが頻繁に発揮されて、足しげく通うようなときは怒られていても、戦後の話は鳴りを潜めるのだが、ちょっとでも間が開こうものなら、僕たちは、まさに飛んで火に入る夏の虫、そのものだった。

「おじいさん。ここで話しててもなんですから、縁側で座って話しませんか?」

戦後の話が出た途端、決まって僕は、こう言うようにしている。どちらが家の住人かという話しになるのだが・・・じいさんも、それをよく知っていて、別に僕たちを、嫌がるという風でもなしに暖かく迎えてくれるのだ。

このじいさんの更にいい所は、後で僕たちの母ちゃんに報告するといったことは、絶対しなくて、縁側でお茶を出してくれるどころか、夏の暑い日などは、スイカなどが振舞われた。ちなみに、念を押して言うがカキ氷を出してくれたことは一度もない。

「まあ、若い頃はな。ワンパクな方がいいんじゃ。大いに、運動して、大いに騒ぐこと。元気があって、健康が一番。いいな。わかったな?くそ坊主。ゴールドキッズ。」

これが最後の締めくくりの言葉となることは、どんな時でさえ、ワンセットになっていた。

まるで僕たちが、鉢を割ることに関して後押しして応援しているとでも取れる言葉を最後にはかけてくれた。僕は、その言葉に、かなり勇気づけられて、なお一層の悪童ぶりを披露してきたのである。ここ最近、じいさんは一層優しくなっていたと思う。一人だったから人恋しくもあり、寂しかったのだろう。だったら隣町に住んでいる息子さん夫婦の厄介になればいいと思ったが、世話になると、何かと気を使うこともあるから嫌だとも言っていた。この一年間、実に僕たちを孫のように可愛がってくれたと思う。きっと僕たちと関係を持てるということ、僕たちとじいさんの存在はお互いに癒しの関係だったことに喜びを持っていたのではないかと僕は思っている。

そんなじいさんが、もういない。明日から盆栽の手入れは誰がやるのだろうか?

まだ決まった話しではないが、僕は、あの犯人かもしれない男に対して非常な憎しみといったものを感じずにはいられなかった。今日、僕たちの前に姿を、現さなかったのは、逃亡しているからであり、とても僕たちに会える状態ではなかったであろうと僕は勝手に推測したのである。

「どう考えても、あの男が、怪しい。明日、もう一度、父ちゃん抜きで公園で男が来るのを俺たちがおびき寄せてやろう。なあ?和樹。」

といいながら和樹を見ると、気持ちよさそうに、ピーピー寝息を立てて、首のあたりをボリボリ掻いている。しばらくすると、たとえようもない安堵感が僕の体中を包んでいた。やがて緊張の糸がほどけた僕の体は、和樹を後追いするかのように眠りの森へと落ちていった。

次の日の昼も僕たちは公園にいた。歩美抜きでだ。今朝、歩美を訪ねたがまだ風邪気味で体調が悪いとの事だった。仕方ないので二人で遊ぶことにした。

なんだか雲行きが怪しくて今にも雨が降りそうなほど、どんよりと空は曇っていたが、僕たちにはそんなことお構いなしだった。

「今日こそ来るかな?あのおじさん?」

はっきりとした確証は無い。でも警察に今、男が捕まっていないようであれば、今日こそ、僕たちの前に男は姿を現しそうな気がしていたのである。

「来るさ。今日こそ。」

僕は、いつもには無い大げさな投球ホームになっていることに気がつき、自然と力が入っていることを、自覚させられた。

キャッチボールをしている和樹の背後に、ちょうど昨日話していたじいさんの茶色の屋根が、チラチラと僕の視界から写っては消えと言う状況で見えていた。

まるでそれは、これから起こりうるであろう出来事に、じいさんが、両手を広げ、フレーフレーと言いながら応援しているようにも見え、僕の活力となった。

そんな時である。突如あの男は現れた。やっぱり睨んだとおり・・・

僕が見ている視界。ちょうど和樹とじいさんの茶色の屋根との中間点から急に、その男は現れたような気がした。和樹に向かって歩いてきているのが判る。

まるで代打指名された打者が、打席に着こうとキャッチャーである和樹の前に向かい、歩みつつある情景のように見えた。

「和樹。早くこっちに来い。」

「えっ?」

「早く来いって言っているんだ。」

和樹は訳わからないといった感じで、ボオッーとしていたが、ただならぬ僕の形相に慌てて僕の近くに走ってきた。

男は、そんな僕たちに、びっくりした様子で和樹が走っていくのと、ほぼ同時に小走りになり僕たちの元へと近づいてきた。

「どうしたの?もうキャッチボールやめちゃうの?」

男は、すかさずそう言った。以前聞いた高い優しい声である。今日は淡いグレーのスーツを着て明るい色のネクタイ着用という感じで、優しさを強調していた。

「何しに来たんですか?」

「君たちと、キャッチボールがしたくてね。」

「またそれですか。絶対、嘘だ!!」

「嘘じゃないよ。本当だよ。この前も話したとおり、おじさんは、ただただ本当に君たちとキャッチボールがやりたいだけなんだ。」

「本当の目的は何ですか?」

「本当の目的って?」

「とぼけないでくださいよ。この前もそんな感じでとぼけましたよね?本当の目的ですよ。本当の目的。他に、目的があるんでしょ?」

イライラしながら僕は男に詰め寄る。

「いや、本当だよ。この前も言ったとおり本当にそれが目的なんだ。」

男のあくまでも、しらをきるその態度に耐え難い憤りと呆れ返るほどの図々しさを覚えた。

「じゃあ、なぜ、昨日も僕たちがここで、野球をしていたのに、来なかったんですか?」

「それは・・・」

「ほら、言えないじゃないですか?」

「逃亡していたんでしょ?」

「逃亡?」

「まだ、しらをきるんですか?」

「しらをきってなんかいないよ。おじさんは本当に君たちと、キャッチボールがしたくて、ここに来た。これが、本当の理由だし目的なんだよ。」

僕は、男が確実に嘘を言っているのは、お見通しだった。何が、ただただキャッチボールがしたいだけ?ふざけるんじゃない。何処の世界に、よそ様の子供とただのキャッチボールがしたい為だけにくる馬鹿がいる。事実、血のつながっているうちの父ちゃんでこそ、僕たちとキャッチボールするというとトコトンまで、毛嫌いをするほどである。これが、垢の他人とするキャッチボールがいかにつまらないことか?だれが、判断したってわかりそうなものだ。

そんな時である。

「どうしました?」

背後で声がしたため、僕たちは振り向いた。そこには、警官二人が立っていた。二人とも警官の制服を着ていたが、もうすでに一人は僕は知っていた。昨日に続いての連続登場である。僕が悪夢で見たあの頼りない警官が一人と、もう一人は初めてみる人だった。

「おまわりさんですか?何にもないですよ。」

男は、優しい声で言った。さも何もなかったように振舞おうとしている。

「何にも無いこと無いでしょ?現に今、僕たちを誘拐でもしようと企んでいたでしょ?キャッチボールがしたいんだという事を口実に。」

僕は、聞き逃さずここぞとばかりに二人の警官に聞こえるのを承知で大声で言った。

たのむぞ。おまわりさん。今こそは、しっかりやってくれよ。悪夢で見た時のようなヘマは、もうしないでくれよ。僕は、そう心の中で祈っていた。

一瞬、二人の警官の顔が、厳しくなったかと思うと鋭く男に向けて、睨みをきかした。

男は、あっけにとられ、かなりびっくりした様子だったが、次第に目を地面に落とし、悲しい顔をした。とてもあの悪夢で見たような力強さなど微塵も感じさせなかった。それは、今までに見た事ないような、とても悲しい男の顔だった。

「おまわりさん、この人、人を殺しているかもしれないんです。ほら、昨日あそこの茶色い屋根の人が毒殺された事件あったでしょ?あのベンチで・・・この人が、関与しているかもしれないんです。殺人者ですよ。殺人者。」

「そうなのか?」

一人の警官の低くて鋭い声が、男に向けて突き刺さった。

「違います。」

男はそういうなり、何も言わなかった。男は身じろぎひとつしなかった。僕は男の下を向いていた目が潤んでいるのに気がついた。相当、悲しいに違いない。[かまうもんか!]

僕は横目で、そんな男を見ながら、尚も言い続けた。

「何が、違うもんか。現に昨日だってここに姿を現さなかったじゃないか。山田のじいさんを殺したので、昨日一日、警察がいるこの付辺に近寄れなかったくせに・・・」

「もういい。よさないか。」

一人の警官が、僕が言うのを止めさせた。

僕は出来ることなら、この場で勝ち名乗りを上げたい気分だった。

やったぁ〜今度こそ、復讐成功。悪夢で見た和樹と警官を殺したことに対する復讐。じいさんを、殺したかもしれないことに対する復讐。全て、復讐が成立したことになる。

「君の名前は?」

「杉山 斉といいます。」

「この辺じゃないだろう。見ない顔だからな。どこから来た?」

「愛知県です。」

男は静かに言った。僕と和樹は、顔を見合わせた。愛知県?ここは、栃木県。なぜ、そんな遠くから来たというんだ?

「ほんとうかぁ〜〜?」

どこかでこの声は聞いたことがある。そうだ。僕が悪夢で見た時、警官が、男に向けて発した言葉である。案の定、悪夢で登場した方の警官がこの言葉を発していた。僕はすごく心配だった。あの時の悪夢で見た時の警官は、とても頼りなく、この言葉を最後に言って男にやっつけられて、殺されたあげくいい所が一つもなかったのである。

「おまわりさん、ここではなんですから、向こうのベンチに座りながら話しませんか?」

僕たちに聞かれたくないと、男は思ったのか?男は場所を変えようと要求している。

「ちょっと君たち、聞きたいことがあるんだけど、交番まで今から来れるかい?」

警官は、男の言うことを無視して僕たちに問いかけた。

「もうすぐ、僕たち家に帰らないといけないんです。両親も心配するので。」

「そうかぁ〜あんまりお父さん、お母さんに心配かけても悪いからな。じゃあ、今から君たちに聞くから、知っている事、全てを話してくれないか?」

というと一人の警官は男と一緒にベンチに歩いて行きかけ、男の話しを聞くという形をとり、もう一人の警官は、僕たちの話を僕たち専用ベンチつまり昨日山田老人が死んだとされるベンチで座り聞くという形になった。

「おまわりさん。気をつけてね。この人は殺人鬼なのかもしれないんですから。じゃないとおまわりさんもおじいさんと同様に毒殺されてしまいますよ。それにキャッチボールが何か関与しているかもしれないので、その辺の所、よく調べて下さいね。」

僕は男と話をしようとしているもう一人の警官に忠告した。僕は男に対する最後のダメ押しを食らわせた気分だった。

僕たちは事情聴取を一人の警官に向けて、その場で取られるという形となった。

僕は、今までの出来事を一人の警官に、早口で話していた。あの男を、とことんやっつけてやろうという気持ちが増幅して、僕の口から次から次へと雪崩れのように出ていたのである。僕は心の中で思った。これで、男は確実に刑務所に入るだろう。罪状はわからないが、警察は何かしら男に刑罰を与えるだろう。僕は確実に思った。

「わかった。ありがとう。君たち。時間を取らせたね。もう家に帰っていいよ。」

全てを聞き終えた一人の警官は、そう言うなり男ともう一人の警官が座っているベンチへと歩いていった。

「おまわりさん。うまくやってくれるかな?」

僕は隣りの和樹に話しかけた。

「ん?う、・・うん。」

和樹は、どもりながら応える。

「なんだよ。おまえ、おまわりさんの味方してないの?」

僕が尋ねると和樹はうつむいたまま僕と目をあわせないようにしている。

「変な奴・・・」

しばらくの間、和樹はうつむき、僕は警官二人と謎の男の動向を伺う形となった。遠くから伺い知る上だったので、よくは判らなかったのだが、男は何やらお願いするように、警官に、頭を下げているのがわかり、その後、名刺のようなものを取り出し、警官に渡しているのが、こちらから、伺い知れた。

「兄ちゃん。」

突然、和樹が僕に話しかけてきた。

「ん?」

「ちょっと、あれはやり過ぎだよ。おじさん。すごく悲しそうな顔していた。」

「仕方がないだろ。ああするしかなかったんだ。」

「おじさんが何をやった?」

「したさ、殺人。全く酷い奴さ。」

「いつ?どこに、それを証明するものがあるの?」

「それを、今からあのおまわりさん達が、調べて解決してくれるんじゃないか。」

「あのおじさんが、兄ちゃんにどんな悪いことした?」

「おい、和樹。どうした?あの男を野放しにしておくと、お前も俺も、あの男の餌食になっていたんだぞ。そんな事わかんないのか?どうして、そこまで、ふ抜けてしまったんだ。

おまえには、あの生きていた頃のじいさんの顔を思い出すことはないのか?何回、植木鉢を割っても、笑顔で俺たちに微笑んでくれたあの山田のじいさんの顔を・・・」

和樹は、さっきから、ずうーっと、下を向き、黙ったままでいる。僕はそこまで言うと口を閉じた。というのも、よくよく考えてみると和樹の言っていることが正しいように思えてきたからである。確かに思えば、あの警官に、言ったのもすべて僕の空想から出た産物であって、何一つ立証されているものが無いと感じたからである。

しばらくすると、二人の警官と男は立ち上がってどこかに行こうとしていた。

二人の警官たちは、いつまでもその場にいる僕たちに気付いたらしく早く家へ帰るように、手で合図を送っていた。

どうやら、男を交番でなく警察署までパトカーに乗せ連行するらしい。

悪夢のときの警官は、理不尽さが際立ってみえ、格好いい所がなかったように思われたが、今日の二人の警官は実に厳格だった。見事に自分の仕事を遂行しようとする態度そのものだった。

「よし、俺たちも帰ろう。」

といい、家に向かいかけた時である。

「兄ちゃん、ちょっと待って。」

和樹の声だった。何かを見つけたらしく、ある場所に向かって走っている。その場所は、さっき皆んなで立っていた所から、男と警官たちが座っていたベンチへ向かうちょうど中間点くらいの所だった。

「兄ちゃーん」

しばらくすると何かを見つけたらしく和樹が僕をこっちに来いと呼んでいる。遠くから見ると地面に何か紙切れのようなものが落ちているように見え和樹がそれを見つけたみたいだった。僕が近寄ると、最初小さな紙切れと思われたそれは、実は名刺だったのである。

僕はその名刺を拾い上げた。ふとベンチを見ると二人の警官と男の姿は、すでになかった。

「あのおじさんのかな?」

和樹が言った。

「ん〜かもな。」

僕は、曖昧に返事をした。

そこには、こう書かれてあった。

愛知県知多郡南知多町日間賀島 

杉山 斉

その名刺は実にシンプルそのものだった。

「和樹?」

「何?」

「あのおじさん、愛知県から来たって、言ってなかったっけ?」

「うん。そう。確かに愛知県って、言ってたよ。それに名前は、杉山って言ってたよ。」

「なら、この名刺、あのおじさんの名刺に間違いないな。」

僕は、その名刺を自分のポケットにそっとしまいこんだ。いつの間にか、日は暮れ始めようとしていて、夕日が回りを黄金色に取り囲んでいた。僕たちは、家へと急いで帰った。

その夜は寝るために、ベッドに横になっても、僕は男のなり行きがすごく心配になっていてあまり眠れなかった。拾った名刺を眺めながら考え事をしていたのである。和樹はというと、かなり前に寝てしまい、気持ちのいい寝息をたてている。

公園の近くの家で人が死んだ。これは、紛れも無い事実である。仮に今日、僕の言ったことが立証されれば、男は間違いなく刑務所に入れられて当分の間、社会には出てこれなくなるだろう。もしかすると、永遠に出て来れなくなるかもしれない。でももしこれが、冤罪だったとしたら、どうだろう?僕の憎しみの意味合いが強い今日の言葉が、何の立証もされずに通ることになったりでもしたら・・・

そんな時、二階に誰かが上がってくるスリッパの擦れる音が聞こえ、部屋のドアがノックされた。

「承、起きてる?」

それは母ちゃんの声だった。

「ちょっと待って。」

僕はそう小声で言うと、部屋の外に出た。

「和樹はもう寝ているからあまり大きな声でしゃべれないんだ。何?」

「歩美ちゃんから、電話よ。なんか眠そうな声で電話してきてるわよ。」

そう言って笑いながら僕に電話の子機を渡し、母ちゃんは下に降りていった。

「ありがとう。」

僕は、そう言うと、こんな時に歩美が電話してくるなんて変だなと思いつつ受話器に向かって話しかけた。

「もしもし、歩美。どうした?」

「承・・・」

それは、低くてやつれた声だった。違う。母ちゃんは、眠そうな声って言っていたけど、この声は歩美の眠そうな声とは違う。何かあったんだ?その一言を聞いた瞬間、ただならぬ状況下に歩美がいることを察知した。異様な胸騒ぎを覚え慌てて僕は部屋の中に戻った。

「どうした。歩美。歩美、大丈夫か?」

僕の慌てた大声に和樹が、とび起きた。

「承君。私、もう生きていけない。昨日なんてお母さんが一日中、帰ってこなかった。私は待っていたのに。お母さんは、私のこと、捨てたのよ。私は信頼してたのに・・・もう、私なんてどうなったっていいのよ・・・」

歩美は泣き声でそう語った。同時に歩美のすすり泣きが聞こえた。

「馬鹿な事言うんじゃない。いったいどうしたんだ。お前の母ちゃんは、今、そこにいるのか?」

「ここには、いない。実を言うとお姉ちゃんの葬式が済んだ日から今日までの十日間、ここにはあまり帰ってきてないの。昼間行っていた会社にはもう行ってないみたいだし・・・水商売で働いて男といつも遊んでいるわ。お母さんは、私が邪魔なのよ。私なんて必要ないんだわ。きっと・・・いつも私が待たされる。いつもそう・・・」

歩美は悲しみに咽び泣いていた。

「もうこんな寂しくてみじめな生活なんて嫌。こんなんだったら、死んだ方がいい。どうせ私なんか、この世から、消えた方がいいのよ。」

「いいか。落ち着け。」

「おねえちゃ〜んど〜して死んでしまったのよお〜」

「だから落ち着けって。何があったか知らないが、今から俺はそっちに行く。そこから動くなよ。いいな。」

「もう、死んでやるわ。」

「何を言ってる。自分をもっとしっかり持たなくちゃだめだ。」

「うるさい。私の気持ちなどわからないくせに黙ってちょーだい。」

受話器の向こうで、歩美の怒鳴る声が聞こえてきた。

「あなたに何がわかるっていうの?あなたのような家族に恵まれたもやしっ子に、この私の気持ちがわかってたまるもんですか。絶望の淵に叩きつけられたこの私の気持ちをあなたなんかにわかるはずがない。うわべだけの寂しさをかじった人がこの私に、偉そうに寂しさと言ういろはのウンチクを気取ってしゃべろうとしてんじゃないわよ。本当の寂しさって、いうのはねえ・・・死なないとわかってもらえない寂しさっていうのはねえ・・・」

いきなり電話が切れた。

「もしもし・・・もしもし」

部屋から見える隣の歩美の家を見てみる。電気も消えて真っ暗なままである。

僕は電話を切り、隣りの家に走った。一部始終を聞いていた和樹も、慌てて僕の後ろをついてくる。

玄関に行き、思い切りドアを何回も叩いてみる。

「歩美。歩美。」

ドアノブを回してみる。開いた。鍵は掛かっていない。玄関に入ると一本のろうそくが灯してあった。中は真っ暗である。急いで、僕たちは、暗い廊下を歩いていき歩美の部屋まで、ズンズン進んでいった。

「歩美。どうした。あっ!」

歩美の部屋のドアをあけた瞬間、僕たちはあまりの惨事に愕然とした。

一本のろうそくが部屋の中央に置いてあった。寂しそうに部屋一面照らし続けている。歩美は、絨毯の上に、ベッドを背にして座っていた。よく見ると右手首に赤い亀裂が走り、その端から血が、ポタリポタリと落ち、下の白い絨毯を妖艶に赤く染めていた。左手の下には、カミソリが落ちている。歩美の目はうつろになっていて、虚空をぼんやり見つめ焦点が定まっていない。

「リストカット・・・」

和樹が、思わず言葉を漏らした。

「おねえちゃ〜ん、かわいそ〜あんな奴なんかに騙されて・・・わたし・・・」

歩美が弱弱しく嘆いている。

次の瞬間、歩美の右手に持っていた数枚の写真が指の間を、すり抜けて絨毯の上に舞い落ちた。それは姉の敦子が泣きそうな顔で両足を大きく開脚したあられもない写真だった。それは、ろうそくの灯りで映し出され悲しそうに揺れていた。和樹は驚いた表情で、それらの写真を見つめると共に、歩美の今、口走った言葉に聞き入っていた。僕はというと写真を見るよりも増して激しい憤りが沸々と沸きあがり怒りの感情が勝る形となっていた。

「馬鹿野郎。もっと命を大切にしろ。お前だけの命じゃねえんだ。どういう事情があるか知らねえが死んで終わらせようとするんじゃねえ。」

僕は歩美の近くに行き、歩美を一発ひっぱたいていた。今、僕の前にいる弱いこいつに判らせてやりたかったからだ。

「この卑怯者。卑怯者。」

そう言って、僕は我を忘れて歩美をひっぱたき続けた。

「兄ちゃん。やめろ。」

和樹の声が、遠くで聞こえる。

「やめろって、言ってるだろ。兄ちゃん。やめないか。」

ふと我に返ると、和樹が必死で僕にしがみつき、止めに入っている。

「俺はなあ。こいつには強く生きて貰いたいんだ。弱い奴には、なって貰いたくねえんだ。」

「仮にそうだって、歩美姉ちゃんをひっぱたくことないだろ?ひっぱたいて何が解決できるのさ。」

和樹は、僕に負けない大声で叫んでいた。

「卑怯者。」

尚も、僕は押さえ切れない感情を持ったまま、歩美の体を揺らしにかかる。

「もういい加減やめろ。やめるんだ。そこまで歩美姉ちゃんを攻め続けてどうするんだよ。仕方ないじゃないか。こうして歩美姉ちゃんはリストカットしちゃったんだから。」

「和樹。お前には、わからねえし、俺にも、わからねえ。こいつが俺たちみたいに兄弟がいなくてどれだけ寂しい思いをしているのか?片親しかいなくて、どれだけ父ちゃんの愛情を必要としているのか?でもな、そんなこいつだから俺はこいつに強くなって貰いたいんだ。そんな事に負けてほしくねえんだ。駄目な奴だけど、心優しいこいつだから・・・俺たちは、こいつと友達だろ?いとこだろ?違うか?いつもこいつと俺たちは一緒にいるんじゃないのか?俺はいつでも助けてやりてえし、いつでもこいつの力になってやりてえ。なのに、なのに・・・」

とても声にならない。僕は、グシャグシャになって号泣したが、歩美も同じように僕に負けないくらいグシャグシャに号泣して俯いて泣き叫んでいた。

「兄ちゃん、もういいよ。そこまで言えば兄ちゃんの思い、充分、歩美姉ちゃんに伝わってるよ。」

和樹は、ポツリ呟いた。

「こんな弱虫、俺の友達じゃねえ。歩美、もうお前の顔なんか見たくねえ。大馬鹿野郎。」

そういって僕は歩美の部屋を飛び出した。僕は暗い廊下を引き返し、またズンズン戻って行く。行き場の無い怒りがまだ僕の体にしつこく付きまとっていた。玄関に行った時である。何やら外で声がする。

「じゃあな。望、明日もしっかり働けよ。」

ドアに手を伸ばそうとした瞬間、ガチャリと音がして、歩美の母親が入ってきた。玄関のろうそくが灯し出した彼女を見た瞬間、僕は幻滅した。

ひときわ鮮やかなパープルのツーピース。真っ赤な口紅の上には光沢を放っているグロス。両耳には大きなファッションピアスが、ゆっさゆっさと揺れている。目にはマスカラを施しアイシャドウが異様な濃淡によるグラデーションの仕上がりになっている。それら全体が、ろうそくの炎に不気味に照らし出され画像が揺れていた。何なんだ?その格好?まさに、いやらしいホステスそのものである。これが本当にあの歩美の母親だろうか?いきなり見た時、とても本人には思えず別人か?と思った位である。

「あら、承君。いたの?」

「何やってんですか?こんなに遅くまで。昨日は一日中、帰ってこなかったんですよね?しかも敦子姉ちゃんが死んでから家にあまり帰ってきてないみたいじゃないですか?あなたが、そんな事やってるから歩美は、手首を切りつけるんだ。リストカットするんだ。」

「え?」

歩美の母親は、目を大きく見開き驚嘆のまなざしで僕を見つめていた。

「それでも、一人の子の親ですか?あなた達は二人力合わせて生きていかなくてどうするんですか?一人が欠けたら、一人はどう生きていったらいいんですか?あなたには、一人の子供がいるんだ。歩美は、あなたの愛を欲しがっているんですよ。そんな歩美の気持ちもわからないくせに。あなたに・・・あなたに、親の資格なんてない。」

僕はドア越しにそう叫ぶと、ドアを思い切り閉め歩美の家を出ていった。

「待って。待ってちょうだい。」

僕は、歩美の母親の引き止めにも従わず、全速力で走っていた。家を出た所で一瞬、一人の人物とすれ違い、僕は肩をぶつけてしまった。その時、暗闇でしっかり確認は出来なかったが年恰好からして、すれ違った人物があの杉山という男ではないかと言うような気がしたのである。ドアの外で聞こえた声はあの男なのか?でも今の自分にはとても怒りが納まる筈もなく、急いでいたので至って冷静に周りを気にする余裕が無かったのである。そんな中ちょうど、父ちゃんも帰宅しようとしていた直前だったらしく家に入ろうとしている所で、玄関先のドアの前で隣の家から出てくる僕の存在に気づいた。

「どうした?承?」

父ちゃんが、そう言うのが聞こえたが、僕は、それを振り切り夜道を全速力で走っていた。

とめどなく頬を伝う涙。僕は、馬鹿野郎と何度も叫び、夜の道をどこに向かうでもなく、ただがむしゃらに走っていたのである。

二時間後、僕は家に帰った。その間、適当に夜の道をくねくね歩いた。

充分、頭を冷やすことが出来たと思う。隣の歩美の家はというと家の明かりが消えていた。

もうすっかり、あたりは寝静まっている。

玄関で靴を脱ぐと二階へ急いだ。父ちゃんと母ちゃんは、まだ起きていた。

僕のために、玄関の鍵をかけず待っていたみたいだった。

リビングに電気が点いているのがわかり、僕と話そうとしている姿がわかったが、僕はもう誰とも顔を合わしたくなかった。ベッドに入るなり、布団を頭からすっぽり被った。

今夜は、もう誰とも話したくない。もういい。そんな気分なんだ。

「歩美姉ちゃんの母親とうちの母ちゃんが、歩美姉ちゃんの処置していたよ。もう大丈夫だって。」

しばらくたって、和樹がポツリ呟いた。

「そうか。おやすみ、和樹。」

「おやすみ、兄ちゃん。」

僕たちは、短い言葉を交わした後、お互い深い眠りに入っていった。

次の日、僕と和樹は、鬼怒川の河川敷に自転車で向かっていた。さすがに和樹には悪い気がしたのでサドル無し自転車は僕が乗っていた。このところ、雲行きが怪しくて、晴れになるのを待って川遊びしようと思ったのだが、天気はちっとも晴れないばかりか、だんだん天気は崩れるとの予報が出ていたのである。そのため、いつまでもこうしていても川遊びが出来ないと判断した僕達は無謀とは思いつつも強行することになったのである。なぜ、いつまでも晴れにならないのか?それには訳があった。台風が日本の南方に、出来ていたのである。台風は間違いなく、この日本列島を縦断するために、その矛先をこちらに向けて照準を合わせていた。今、台風十五号は九州の宮崎上空にあって東北東

へ二十kmの速さで進んでいた。中心気圧は九百十五hpa、中心付近の最大風速は五十五m/sという大きさがあった。明日の午前中には、関東上空に差し掛かるというもので、それは二、三日は待たないと晴れにはならないというものだった。僕たちは待ちきれなかった。どうせ晴れの日には、人、人、人でごったがえし、テントを張るもの、釣りをするもの、バーべキューをするもの、水浴びをするものといった具合に、エリア全域にそれぞれの縄張りが所狭しと陣取られ、自分たちがゆっくり思うように行動出来ないことを僕は知っていたのである。事実この前が、そうであり、十日程前に来たのだが、あまりの人の多さに、現地へ着くなり、引き返したという経緯があったのである。台風が近づいているので、こんな日にわざわざ川遊びをするために来る人などいないだろう。きっとみんな家で大人しくしているだろうと思ったのである。僕たちは、久しぶりの川遊びができることに胸が高鳴っていた。現地につくと同時に、予想どおりの展開に僕たちは奇声をあげていたのである。それでも、全く人がいないという訳ではなく、河川敷で五人位が、バーべキューをしていた。眼下には、岩がゴツゴツしていて、川を挟んだ対岸には、竹林が続き、サクラ、ブナ、ケヤキ、カエデといった広葉樹が色鮮やかに演出していた。通常、上流から山あいを縫うように谷間を駆け下ってきた渓流がここに注ぎ込み、緑深い中を流れる清流となり、勢いのあるところでは、岩に砕ける白い泡が生じ、それ以外は、澄み切った透明感がこの辺一帯を普段なら支配しているのである。だが、台風の影響であろう、時折吹く強い風が、川面を波立たせていた。今朝、母ちゃんが夜中に物凄い雨が降っていたといっていたのを思い出した。その影響もあるのだろう、いつもより水かさが増えているばかりか、水の透明度がいつもよりなくなっていた。

「兄ちゃん、どうする?ここで泳ぐのは、今日、止めにする?」

「何を言っているんだ。せっかくここまで来たじゃないか。俺は泳ぐ。和樹は、どうしても嫌なら、川原で遊んでいろ。」

そう言われて、黙っている我が弟ではなく、僕の挑発にまんまと乗せられ、泳ぐ気力を漲らせている。僕たちは、林になっている所に自転車を置き、そこで着替えるや否や、川に向かってダッシュをして、ライダーキックをしながら飛び込んでいた。水の中は、とてもひんやりとしていたが、しばらく遊んでいるうちに、その感覚がなくなっていった。鬼怒川は清流の一つとされ、ヤマメ、ウグイが釣れるのだが、あいにく今日は水が濁っていることもあり、釣り人は一人もいなかった。潜るとさらに透明度を欠いていた。普段なら水中を泳ぐ魚の姿が観察出来るのだが、濁った水中では、かろうじて魚の銀色の体が時折、視界に写っては消えるというものでしか、観察出来なかった。

「兄ちゃん、ザリガニとったどぉ〜。」

川岸にあがっていた和樹が誇らしげに言っている。僕たちは、ザリガニ捕りをしたり、川で泳いだり、飛び込んだり、水を掛け合ったり普段では味わえないことに興味を持ち、大いに遊んだのだった。

「歩美姉ちゃんも、ここに連れてきてやりたかったね。」

僕達は遊び疲れて岩の上に腰をおろし休んでいた。そんな時、いきなり和樹が呟いたのだった。

「ああ。」

僕は息を大きく吸い込み言葉と共に吐き出していた。

僕たちは、昨日のこともあり、歩美のことが心配だったのである。

実は今朝、僕は歩美を遊びに誘ってやろうと和樹に相談していたのである。

「歩美姉ちゃん。今朝早くに歩美姉ちゃんの母親と、二人でどこかに出掛けて行ったよ。」

「え?和樹、おまえなんで知ってるの?」

「朝、トイレに起きた時、二人で大きな荷物を持って家を出て行ったの僕見たもん。」

「へえ〜。どこ行ったんだろ?」

「知らない。二階の窓を開け話しかけようとしたら、まるで人目をすごく気にしているようで、物凄い速さで歩いていったんだよ。とても話しかける状況じゃなかったよ。」

「今、大きい荷物って言ったか?」

「うん。」

大きい荷物というのが、とても僕には気になっていた。今朝から、そんな状況であったため僕たちは歩美を誘いたくても、誘えなかったのである。

昨日のリストカットのことは、何ひとつ話題にしたくなかった。これからもずっとである。僕の中では、昨日のうちに、歩美の弱さを、自分の流した涙で綺麗さっぱり洗い流していた。所詮、周りの僕たちが騒いだ所でどう変わるものでもないことは判りきっている。僕は、結局この先の事は、歩美自身が強くなることを祈るしかないと思っていたからだ。

「歩美のことはいいとして、あの男。もう逮捕されたかな?」

ふと僕は、そんな疑問がよぎったので和樹に言ってみた。

「さあ、それは、どうだろうね?」

「結局、何がしたかったんだ?」

「僕たちとキャッチボール。」

「まさかお前も本当にそうだと思っていたんじゃないだろうな?」

「だって・・・じゃあ父ちゃんの恋敵」

「それも違うと思う。」

「なぜ?」

「よく考えてみたんだ。あの男は俺たちの名前をどこかで調べて知っていた。恋敵になるんだったら、わざわざ俺たちの名前など調べなくてもいいことだろ?それに父ちゃんが違う女性とデートするマメさがあるとは到底思えない。」

「それも、そうだね。」

僕たちは、そう言いながらお互い笑ってしまった。

全てを解決する糸口は、愛知県にある気がしてならない。

先ほどから話しをしながらではあるが、小雨がパラパラと降ってきているのに、僕は気づいていた。西の空に目をやると、雲がうねりながら速い速度で突き進んでいる。時折ではあるが、かなり遠くの方で雷による稲光りがしているのが確認できる。この河川敷には川の中ほどに中洲が出来ていて、そこにある岩の上で僕たちは話し合っていた。

「やっぱり、あの男。俺たちを誘拐しようと企んでいるのかもな。」

「兄ちゃんは本当にそう思う?」

「って心にも無いことを言ったりして。実をいうと思わない。もしそうだったら、今まででも、そういったチャンスというのはあったと思うし、強引に大人の力で俺たちを誘拐しようとすれば、無理にでも出来たはずだ。しなかったところをみると、それも違うと思う。」

「結局、僕たちは、いつもそうだけど、あのおじさんのことを話せば話すほど謎が深まるし、どうしても最後の答えは、おじさんを悪者にもっていこう。と考える傾向があるよね。」

和樹は、クスッと笑いながら言った。つられて僕も笑うと、本当にそうかもしれないと思った。男は警察に連行されてどうなったんだろう?今頃、男は刑務所にいるかもという想像を強めたが、実際に男が刑務所に入っているのを、確認したわけではないので何ともいえない。

「あの男、実は、すごくいい人だったりしてな。」

僕は、男が犯罪者だと決め込んではいるが、こういう考えがないわけではない。

「うん。」

和樹も、それに従っている。どうやら、僕と同じ考えのようだ。

「確かに、俺たちは最初公園で男を見た時は、この辺では見ない顔だな。と思った。ところがだ。その次に思ったことは、俺は、怪しいな。と思ったが、和樹はどう思った?」

「ん?僕?そうだね〜」

しばらく考えて、和樹は言った。

「暑そう?僕の飲んでいるサイダーもっていってあげようかな。と思った。」

「そうだな。確かそうだったよな。次の時点で俺たちはそれぞれ、違う感覚というものを持った。俗世間では、俺の考えというのは、正しいことで、和樹のように、見知らぬ人に何かをしてあげようと思う事というのは、正しくないと、思われている。それが、一般的な考え方だ。」

「確かにそうだよね。」

「でもな。和樹。どこでそれが正しいと判断できて、どこでそれが正しくないと判断できるんだ?」

「え〜?だって、みんながみんな僕のような考えをしていると、本当に誘拐されちゃうからさ。」

「そうだな。でもな。和樹。本当に兄ちゃんの考えが正しいと判断していいものなのだろうか?」

「正しいんじゃないの?どこが違うっていうの?」

「確かに、あのとき俺は和樹がサイダーを男へ持っていこうとしているのを、やめさせた。その理由というのは、知らない男。イコール。悪い人。誘拐するかもしれない犯罪者という考えがあったから。じゃあ、ここで反対に和樹に聞きたい。何故、兄ちゃんはそういう考えに結びついているんだと思う?」

「・・・わかんない。」

「それは、以前、母ちゃんに言われていたし、また実際に、そういった事件があり、テレビを通じて報道されたことにより、兄ちゃんの気持ちの中に、そうしないといけないという決まり事みたいなものが、出来てしまったからさ。」

「それが、いけないこと?その事件により一層、気をつけることになったから、結局はいい事になったんじゃないの?」

「あの時、和樹に男へサイダーを持っていこうとしているのを怒っておいて言うのも何だが実際としてみた場合、兄ちゃんは、果たしてそれが、いい事なのか?悪いことなのか?は正直いうとわからないでいる。」

「どうしてさ。絶対正しいことだよ。」

「和樹。こう言われているのを耳にしないか?最近の大人は子供を叱らなくなったと・・・この原因全部が、こうだとは言わないが、この原因の一つに、兄ちゃんは子供の世界と大人の世界のコミュ二ケーション不足があると思う。昔の子供と違って、今の子供は、部屋に閉じこもってテレビゲームをしたり、インターネットをしたり、とかく外で遊ばなくなったと言われてるだろ?そして、そういう子供が久しぶりに外に出たら、知らない人には、コミュ二ケーションとるな。気軽に話しかけるな。と言われてむしろ大人というものを無視するようになってるだろ。大人も大人で、子供に無視されているお返しじゃないけど、あまり子供について、干渉しなくなってる。事件がある度に、もっともっと大人と子供のボーダーラインがはっきりとしかれ、より疎遠になっていく。つまり、俺たちと山田じいさんのような人間関係になる世の中が段々と少なくなってきているということさ。」

「なるほどね。それも、あるよね。兄ちゃん。」

和樹は妙に納得したらしく軽く頷いている。そんな中、僕は先程から気にしていた雨が少しずつではあるが強くなり川の水かさが徐々に増している事に気付いたのだった。空を仰いで見る。いつの間にか暗雲が垂れ込めて一面薄暗くなってきている。

「和樹。雨が強くなってきたみたいだ。さあ。もうそろそろ行こう。」

といいながら、僕はこれ以上話していると危険だと判断し、その場を立ち上がり、和樹より先に中洲から川の中に向かい飛び込んでいた。実際、川に飛び込んで感じたのだが、明らかに流れが増していて、川下へ押し流す力が並大抵でないことに驚かされた。それでも何とか必死に流れに逆らって泳ぎ続け対岸まで泳ぎきることが出来たのだった。

この分では、和樹もかなり大変な思いをしているんだろうなと思い、中洲に目をやったその時である。

「兄ちゃん、たすけてぇ〜」

遠くで和樹の叫び声がする。最初、僕は和樹がどこにいるのか?わからなかった。中洲を探したが、もうすでに姿は見えない。全然、わからない。和樹、どこだ?どこなんだ?

「和樹ぃー」

僕は叫んだ。素早く僕の背中に悪寒が走った。

ならば、川面と思い探し回わった。それでも、見つからない。どこだ?どこに和樹はいったというんだ?手の平にジトジトした嫌な汗が湧き出てきているのが感じ取れた。十mくらい下流にいった所で、ようやく和樹を見つけたときには、僕は言葉を失った。

茶色く濁った川の中腹あたりで川底から出ている水草に捕まり助けを求める和樹の姿があったのだ。そこだけ特に流れが速くなっていて和樹は必死に水草に捕まりもがいていた。まるでその姿は、あばれ馬にまたがり、振り落とされまいと頑張る騎手の姿に似ていた。どうやら、僕の後をついていこうとして飛び込んだのだが、あまりにも川の流れが速くなりすぎていて、水深が深くなっていることに、ついていけず、流れに流されたまま、途中の川底から伸びる水草に、?まっているという状況になっていた。

「和樹。待ってろ。今、助けにいくからな。」

そういうと、すかさず僕は川に向かい、ダイブを試みた。さっきより流れは桁違いに速くなっており、僕の力では、もうどうすることも出来なくなっていた。あっという間に川下に五mくらい流されて、川原に上がらざるを得ない形となってしまった。水量も増えて地盤が弛くなり川原の砂を少しずつ侵食している。焦れば焦る程、どうしたらいいのか?判らなくなる。心臓のバクバク音で体中がヒートアップする。[焦るんじゃない。落ち着けってんだ。馬鹿野郎。]僕は自分自身に向けて叱咤する。とにかく助けを呼びに行こう。それしかない。

「和樹、兄ちゃんの力ではもうどうする事も出来なくなっている。今から助けを呼びに行ってくるから、その場で、頑張ってしがみ付いているんだぞ。」

僕は、河川敷まで急いで行き、バーべキューを片付けようとしている男女五人のグループに駆け寄り助けを求めた。

僕は、彼らを引き連れ、再び川原に戻ると和樹を探した。グループの男性たちは、皆、泳ぎが達者ではなく全員金づちという状況だった。女性は泳げる者がいたが、二十五mくらいしか泳ぐことが出来ないというものだった。川の流れが急になっていることもあり、女性の力ではもうどうすることも出来なくなっていることは明白だった。もはやこのグループによって和樹を救うということは不可能といってよかった。

「大丈夫かあ。気をしっかり持つんだ。あきらめるんじゃないぞ。今、レスキュー隊呼んでやるからな。」

人それぞれに川原から和樹に叫んでいた。グループの中の男性の一人は、携帯で消防に向けて電話をかけていた。

川の流れは、ますます急になっていて、川上の土砂を含ませて見事に濁流と化していた。雨量も、かなり増してまさにバケツをひっくりかえしたという表現がぴったりあて当てはまるほどの雨量に近づいていたと言ってよかった。

「たすけてぇ〜」

雨音に打ち消されて弱弱しく響きわたる和樹の声が、次第に小さくなっていき、時折聞こえる咳払いに幾ばくかの水を飲んでいることを伺わせた。

「和樹ぃ〜和樹ぃ〜」

僕は、出来る限りの大声で和樹に向かい叫んでいた。よく見ると濁流に混じる木々の残骸が、和樹を痛めつけている。その時、川底に生えている水草ではとても対応できなくなり、和樹の持っていた水草は、たちどころに切れて、和樹を川下に押し流したのである。あっという間に、どんどん和樹は川下に追いやられる。

「和樹ぃ〜」

誰もが諦めかけた次の瞬間、近くでザバァーンという音と共に、水しぶきがあがっていた。

見ると、一人の男が、和樹に向かってひたすらに泳いでいるのが判った。

あの男である。あの杉山という男である。

「おじさん。助けて。和樹を助けて。」

僕は、思わず大きな声で叫んでいた。

[えっ?なんで警察に捕まってないの?証拠不十分による釈放?まさか脱走?やっぱりあの警官は悪夢の時と同じで頼りにならなかったの?]すばやく僕の脳裏を、よぎった。

男が、ここにいられること自体、不思議に思えたが、今は、そんな流暢なことを思っている場合ではない。むしろ今の状況から考えて、釈放されて有り難い位だ。

男は必死になって、流れている和樹に向かって泳いでいた。僕は、二人の成り行きを伺うため川下に向かい歩を進める。

濁流が男の泳ぎをかなり妨げていて、行く手を阻んだが、それでも少しずつではあるが、二人の距離を縮めていることは、誰の目からみても判った。

あと五m、四m

しだいに和樹と男の距離が狭まっていく。

三m、二m

もう少しと思われたその瞬間、急に水面に浮いていた和樹の姿が消えた。完全に消えていた。男は、それに気づき慌てて水中へと潜った。それを見ていた僕たちに緊張と焦りが電光石火のように走った。まるで、それは、スローモーションを見ているようで、今まで叫んでいた僕たち全員が凍りついた瞬間でもあった。

どれくらいの時間が過ぎたことだろう?僕たち全員、二人があがってくることに固唾を飲んで見守る形となった。

二秒、三秒、四秒

次は、時間の秒読みのカウントダウンがいたずらに増えていく形となった。

七秒、八秒、九秒

まだ二人はあがってこない。僕は、背中に冷たい悪寒が走った。無意識のうちに、両手をあわせ、拝んでいた。

「たのむ。たのむ。助かってくれ。たのむ。和樹。」

十秒、二十秒

悪魔が完全に川原から見ている僕たちをせせら笑っているように思われた。それでも僕は祈った。和樹に向けて、ひたすらに。男に向けて、ひたすらに。

三十秒。

遅い。遅すぎる。僕の気持ちの中に住んでいる弱気な邪気が沸々と湧き上がり、一種、あきらめにも似た感情が動き出だした瞬間でもあった。

「ふうぅ〜」

その瞬間、男の頭が現れると同時に鯨がまるで背中から塩をまき挙げるように、男が浮上し口から水しぶきが上がった。和樹は、大丈夫か?見つけられなかったのか?誰もが諦めかけた次の瞬間、男は流されつつもグイッと力強く腕を手繰り寄せた。見ると腕の中には、打ちのめされた和樹が包まれているのが確認できた。男は、どんなことがあったとしても、絶対、和樹を放しはしないといわんばかりの勢いで携えており、しっかりとした足取りでこちらに向かい水中にも関わらず歩を進めていた。おびたたしいほどの雨が尚も情け容赦なく降り続く中、通常六十cm程ある川の水深は、さらに一m高くなり、一m六十cmに膨れ上がっていた。かろうじて男は川底に立っていたが、踏みつける石にこびりついているヘドロにも似た藻が男の足を滑らせるどころか、ところどころ増水により川底が削り取られるかして、水深が極端に深くなっていて地獄への入り口があんぐりと口を開けて待ち構えていた。誰の目からみても自然の猛威が男に襲いかかっているのが確認できる。浮上してからも、男はかなり下流に流されて苦労していた。でも川原への距離は確実に狭まってきているのは遠くから見ていて伺い知れた。男は一歩一歩大切に川底を踏みしめていた。

五m、四m、と思った次の瞬間、

「うぅー」

そういった唸り声とともに、一瞬、男の姿が川面から消えた。男は濁流に呑みこまれていたのだ。それを見た誰もが言葉を失なう。すぐまた男は姿を現したが、男にとってそれは水中で死闘を繰り広げているに違いなかった。

三m、二m、一m

やっとの思いで男は川岸にたどりつき、和樹を抱きかかえたときには、疲労困憊といった姿となっていた。

「和樹ぃ〜」

僕はそう叫び男と和樹の元へ走っていた。

男は、和樹を地面に寝かしつけたかと思うと、次の瞬間には、人工呼吸と、心臓マッサージを繰り返していた。

「死ぬなよ。和樹ぃ。死ぬなよ。死ぬんじゃないぞ。和樹ぃ。死ぬんじゃないぞ。」

男の声は掠れていた。男は全身を震わせて、狂ったようにそう何回も唱えている。

「今、助けるからな。死ぬんじゃない。死ぬんじゃないぞ。和樹ぃ。」

まるでその姿は何かにとりつかれている亡者になっていた。

和樹を生き返らせる為に必死になって人工呼吸と心臓マッサージを交互に繰り返し、回復を願い続けている。男は和樹に全力を振り絞り助けようと必死である。決して力を緩めることなく一心不乱にその動作は、僕の目の前で繰り広げられていた。

無情にも男のそんな熱意にも拘わらず、衰弱しきった和樹からは一向に生気が感じられない。唇が真っ青になっている。まるで見ていると蝋人形であり普段見ている和樹とは全くの別人がそこにいるような錯覚さえ感じるほどだ。まさに魂の抜け殻がそこにはあった。もう何回その動作が続いたことだろう?その時だった。

「うっ!」

という呻き声とともに、突然、和樹は激しくむせて咳き込んでいた。和樹が意識を取り戻したのである。

その瞬間、周りを取り囲んでいた僕たちは、皆一様にその場を、飛び跳ねて喜んだ。

「和樹、大丈夫か?」

僕は叫んでいた。

尚も、和樹は苦しさで顔を歪ませていて、立て続けに咳払いをしている。僕は、それを見た瞬間、ホッと安堵のため息をついた。急に甦った和樹がそこにいて、みるみるうちに血色が良くなっていくのが確認できた。よかった。これで、もう和樹は助かった。誰もが、峠を越したと思った瞬間でもあった。

それを見届けるとすぐに、男はスッと立ったかと思うと僕に向かいこう言った。

「よかった。もうこれで安心だ。承君。和樹君を頼んだよ。」

さっきの声の主とは全くの別人になっていた。優しい柔らかい声だった。男はそう言うと、踵を返し、道に向かい歩いていた。

「待って。」

僕が言うが早いか、和樹が僕の足を掴み、わあーっと泣き出した。

「和樹。助かったんだよ。」

僕はしゃがみ込み、こらえきれず、涙ながらに和樹に向かい、そう叫んでいた。

「兄ちゃん。兄ちゃん。」

僕たち二人は、お互い涙してその場で抱き合い、助かったことに対する感激の意を表した。

「よかった。和樹。本当に助かってよかった。」

「兄ちゃん。僕、怖かった。もう死ぬと思った。でも・・・でも、助かったんだね。」

「ああ、勿論。夢でも、何でもない。こうして、お前は、しっかりと、ここにいる。」

「あのおじさんが、助けてくれたんだね。」

「・・・」

僕は、ふと男の去っていった方向に目をやってみる。もうすでに男の姿は無かった。

一体、あの人は善人なのか?悪人なのか?はっきりしない疑問が残る。

僕たちは降りしきる雨の中、男の立ち去った方向に目をやり、いつまでも立たずんでいた。

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