台風十五号は依然強い勢力を保ったまま、太平洋上を関東の南五十kmにあって東へ毎時十五kmの速さで進んでいた。中心気圧は九百八十五hpa、中心付近の最大風速は四十m/s。昨夜九州の南にあった台風は次第に進路を東寄りに変え、今朝になると関東の南の海上を進んでいたのである。関東に在るといえども、我が家近郊は、電線が断線したり、木がなぎ倒されていたりと、台風独自の猛威を振るっていたのである。関東周辺の海域は大シケで厳重な警戒が必要とされた。 わが金田家も、昨日の事があり、父ちゃんから外出禁止令が発令され、警戒厳重体制がとられていた。 そうされては従うしかないので僕たちは、二階にある自分たちの部屋で猛烈な勢いで窓ガラスを叩く暴風雨を見ながら、じぃっとしてラジオを聞いていた。ゴオォォーーといいながら、あらゆる方向から攻めてくる激しい風が窓ガラスをしならせ、時には、サッシごとガタガタと軋ませた。通常の僕たちであれば、そんなことにビクビクするほどの小心者ではなく、むしろ一喜一憂するのであるが、今は、とてもそんな気分にはなれなかった。体中が、錆付いたように硬く、鉛がついているように、とても重かった。 ゴオォォォーー 情け容赦なく暴風雨が窓ガラスを、蹴散らしにかかっている。僕のバイオリズムの波長は、もし今、調べるならば、一番の底辺にスポットがいくだろう。何気ない音でさえも、不快な音の一つに感じ、僕の癇にさわった。 ガタガタガタ 特に、このサッシの軋む音は最悪である。まるで、僕の錆付いた関節を同時に軋ませるかのように、連動して全関節を震わせた。 「はあ〜」 隣りで、和樹が一つ大きなため息をついた。だらしなく口をぱっくりとあけ、部屋の中央のどこに焦点を合わせる訳でもなく、ぼんやりと眺めている。こいつも僕と以下同文であろう。 「兄ちゃん。これ出来る?」 ふと、和樹をみると、舌を器用に星型に折りたたんで僕にみせている。 「出来ない。」 「あっそ。」 「和樹。これ出来る?」 僕も、負けじと舌の上に小さな唾液で作った風船をつくり、飛ばしてみせた。 「出来ない。」 「あっそ。」 いつもの僕たちであれば、喜びひとしおで感情をそのまま相手にぶつけて、お互い楽しむのであるが、互いの体のけだるさが、珍しいことへの食いつき度を、皆無にさせていた。 そんな時、時を知らせる時報がラジオから聞こえてきた。 ピ、ピ、ポー 「午前十一時のニュースをお伝えします。昨日、午前六時四十五分ごろ、神奈川県横須賀市のアパートの一室で小学六年生の男の子がベッドで倒れている所を近所に住む祖母が発見し、一一九番通報がありました。男の子は搬送先の病院で死亡が確認されたということです。県警横須賀署は殺人容疑で、パート従 業員の母親(40)を逮捕した模様。警察の調べによりますと、容疑者は同五時半ごろ、自宅アパート室内で寝ていた男の子の首をいきなり絞めて殺害に及んだという疑いが持たれています。約一時間後に祖母宅を訪れ、容疑者は泣きながら詫びたため、祖母が容疑者宅へ様子を見に行くと、倒れている男の子を発見。犯行時、夫は釣りに出掛けており、容疑者は夫がいない時間帯を選び殺したと自供しているということです。警察の調べに対し、母親は、容疑を認めた上で、息子が学校に行きたがらなかったり、自分も人間関係で悩んでいて子供を殺して自分も一緒に死のうと思ったと供述しているということです。警察は容疑者から更に詳しい動機などを追求する方針です。」 「ひでえ事件だな。」 「そうだね。」 「この母親、子供のこと、かわいくなかったんだな。」 「一瞬はね。」 「和樹。変な事いうなよ。一瞬とは、どういうことだよ。」 「一瞬は、一瞬だよ。その時は、すごい男の子が憎かったんだよ。」 「そんなことあるもんか。父親が釣りに行っている時間帯を知った上での犯行じゃないか。これは、しっかりと計画された犯行だし、ずぅーと男の子のことが憎くていつ殺そうか、機会を伺っていたんだよ。決して一瞬じゃあない。」 和樹は体勢を入れかえるとキチンと座りなおす。僕の反論にどうやら食いついたみたいだ。 「ここでいう僕の一瞬ということは、子供が学校に行かなくなった期間のことだよ。子供が生まれて今まで生きてきた期間のことを考えたら一瞬のことさ。母親は子供に対して、なぜ、学校いかないのか?悩んでいたって言ってたじゃないか。本当はね。兄ちゃん、この母親、子供が可愛かったんだよ。ただ、その一瞬だけ自分の言うこと素直に聞かなかったもんだから、憎くなっちゃったんだよ。ほら、可愛さ余って憎さ百倍っていうだろ。」 「そんな事、あるもんか。じゃあ、なぜそんな可愛い子を殺すんだよ。別に殺さなくたってよかったじゃないか?」 「兄ちゃん、この世の中に、自分の子供が可愛くないなんて思っている親っているの?自分の分身なんだよ。母親なら、自分がお腹を痛めて産んだ子なんだよ?よくテレビで見ないかい?母親が分娩室に入り、苦しんでいる姿。その後、産まれたわが子を大切そうに抱いて涙を流している姿。あれが本当の母親の気持ちじゃあないの?あのとき、産まれてきてくれてありがとうって必ず思っているはずさ。子供もそれに応えるべく、この世に出てきたんだと思う。何も産まれたときから、母親に俺は将来、登校拒否してやるからな。へっへっへっ。と笑いながら産まれてきた訳じゃないはずさ。最初から憎いと思っていたら、母親は産まないはずだよ。でも、人間長く生きていると、そんな頃の子供を産んだ感動なんて忘れてしまう。結局この人は優先順位を間違えていたりするから、罪を犯しちゃったりするのさ。」 「優先順位?どういうことだよ?」 「今から、ちょうど一年前、兄ちゃんのクラスの鈴木君のお父さんが死んだじゃないか?あれ、覚えてるかい?」 「ああ。」 そうだ鈴木といえば、ちょうど一年前になる。その一年前、僕たちのクラスは、二限目に入り、国語の授業をしている時だった。教室の扉が開き、担任の野田先生が顔を覗かせた。 「鈴木君、ちょっと。」 鈴木が呼ばれ、先生と何やら廊下で話しているなと思った次の瞬間、急いで鈴木が教室に血相変えて戻ってきて、カバンに教科書を詰め込んでいた。気持ちは、かなり興奮しているようで僕たちの問いかけに、とても応じられないといった状態で顔は紅潮し、嗚咽しながら教室を出て行った。 それは、いきなりの出来事だった。ただならぬ気配に、僕たちのクラスは一瞬、どよめいた。鈴木の親父が死んだという知らせだったということを、僕はその日の昼に知った。今夜、通夜があり、明日に葬式があるとの知らせを受けた。僕は、次の日、母ちゃんと和樹と三人で葬式に参列した。そこで、僕たちは驚いた。詳しい死因までは聞かされていなかったから、鈴木の親父を見た瞬間、僕は思わず目を背けてしまった。白装束に包まれて、顔は、綺麗に化粧されてはいたが、首筋に縄の文様がくっきり刻まれ、顔がぱんぱんに腫れあがり首から下の皮膚は赤黒く淀んだ色になっていた。僕はその時、物言わぬ屍から未練じみた何かを感じ取ったのである。これも、かなり後になって仕入れた情報なのだが、どうやら鈴木の親父は、会社でパワーハラスメントつまり人間関係に相当苦労していたらしく、精神的に病んでの首吊り自殺だったみたいだ。 「あの時さあ。僕、思ったんだよね。優先順位からして何も死ぬ事ないのにって。」 和樹が当時を思い出しながら言った。 「そりゃ、そうだけど、いろいろ事情があったんだよ。」 「どういう事情?」 和樹は更に食い入るように僕に詰め寄る。今までにない弟の真剣な眼差しに僕は少し圧倒された感じになっていた。 「そんな事、当人に聞いてみないと判らない事だけど・・・人間関係にすごく苦労してたみたいだから。」 「会社辞めればいいじゃん。なぜ、辞めなかったの?」 「そりゃ、おまえ、そう簡単に言うけど、もし辞めたら、家族が路頭に迷うことになるだろ?」 「でも、その人が死んだら、もっと家族は路頭に迷うよね?死ぬってことは、そこで終わっちゃうことだよ。生きてさえいたら、この先、ひょっとかしたら成功するかもしれないし、もっともっと挽回できるチャンスはあるかもしれないのに・・・死ぬよりも辛いことなの?会社辞めることって?」 「・・・」 「謝っても許されない事だったら、何か違う方法をとって解決出来なかったんだろうか?死ぬ以外に方法はなかったんだろうか?そんなことは無かったはずさ。」 「・・・」 「ラジオの事件だって、息子を殺す前に、何か違うことが出来たはずだよ。色んな事が、同時に起きたから、自分の中で優先順位が判らなくなっちゃって、パニックになっちゃたんだよ。この人は・・・」 一息おいた後、和樹は窓に目を向けた。 ガタガタガタ ゴオォォォー この音や風は今や僕の関節を軋ませるばかりでなく、僕の心に開いたちっぽけな穴をすり抜けて、除々にその穴を大きくさせようとしているように僕は感じていた。 同時に和樹も成長したもんだと感じた瞬間でもあった。そうか、優先順位か・・・ ラジオは正午を告げ、僕は、ぼんやりと更に荒れ狂う暴風雨に痛めつけられている外の景色を見ていたそんな時である。距離にして僕たちの家から約二十m離れた所だろうか?その前方に、街路樹のプラタナスが植えてあって、激しい暴風雨に、その体を棚引かせていた。一台の乗用車がはるか後方より現れて、その隣に止まったのである。僕は、それを見てこの台風の時に運転しているなんて無謀な人もいるもんだと奇妙に感じていた。 中から、出てきた人を見てさらに僕は驚いた。 「おい、和樹。あれ見ろ。」 僕は、一台の車を指さし言った。 男は、自動車を降り、プラタナスの横に立ちこちらを見ていた。防風林の役目をしていたが、それでも情け容赦なく雨と風が男に襲いかかった。 「あれ、あの杉山っていうおじさん。」 「あのおじさん。俺たちの家を、知っていたんだな。」 「あんな大きい車、乗っていたんだね。」 シルバーの車だった。三河 330 そ ・・・・ 「三河?やっぱりあのおじさん。愛知県から、来たんだな。」 「え?三河って、愛知県なの?」 「そうさ。」 なぜ知っているかというと以前こんな事があった。 それは家からさほど遠くも近くもない所を父ちゃんと歩いていた時のことである。 そこには工場があって一台のトラックが、まさに工場から出発しようとしていた。 「父ちゃん、あれ。」 僕は見慣れぬそのトラックのナンバープレートを指さしていた。 「ん?あれがどうかしたか?」 「三河って書いてあるよ。変わってるね。どこだろう?」 「愛知県さ。」 「へえ〜愛知県なんだ。」 「ここの工場は、トヨタの下請けだからな。三河ナンバーここは多いんじゃないか?多分、あのトラック、今から、愛知県の豊田市へいくんだよ。」 「へえ〜あの有名なトヨタって、愛知県なんだ?」 「そうだよ。」 それを僕は思い出したのである。 男は、しばらくの間、こちらをジッと見ていた。身に着けていた黒のスーツが、今の気持ちを表しているかのようだった。 男は悲しそうな顔をしてこの雨の中、泣いているように僕には感じた。 それを見ているうちに、僕の中に、今までに感じたことのない淡い感覚が、押し寄せてきた。この男と関わった何日間の思い出もさることながら、何であるか?わからないが、もろくてはかない物への哀愁にも似た感覚、今にも潰れてしまいそうな物に対する慈しみにも似た感覚。それらが、全身を支配していた。和樹を見るとすでに泣いていた。和樹と男は、互いの距離はあるにせよ、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。 僕は、窓を開けた。 ゴオォォー ものすごい風である。たちまちにして、部屋の中が、荒れ狂う風に占拠され支配された。舞い上がる紙類、忙しなくたなびく壁に貼り付けてあるポスター。 風は部屋の中に入るや否や、待ってましたといわんばかりに室内を縦横無尽に暴れまわっていた。到底、この風では、男に何かを言おうと思っても聞こえるはずもなかった。 「助けてくれてありがとう。」 和樹が大声で叫んだ。 多分、聞こえていないだろう。男は、そんな僕たちに向かい、手を振って応えてくれていた。雨は、尚も容赦なく男の顔を叩きつけていた。 まるで、今日でお別れというような感じだった。 男は、もうこれで充分といった満足気な表情にかわり車に乗ろうとしていた。 「待って。おじさん。待って。」 和樹は大声で叫んだが、男には何も聞こえていない。 取るものも取らず、僕たちは一階へダッシュした。 玄関を出て急いで道まで出た時には、男の車は僕たちの前方二百m先にいて、だんだんと遠くなっていくのが確認できた。そして車は見えなくなった。 「今から、この台風の中、愛知県まで帰っていくのかな?」 見えなくなった車を残念に思いながら和樹がポツリ呟いていた。 結局、どういう人だったかも上手く掴みきれていない。 キャッチボールをしたいと何回も言っていたが、愛知県からここまで来た本当の目的が何であったのかも知らされていない。 そして、何よりも男に向けて一番したいことは、もっとちゃんとした形で和樹を助けてくれた事へのお礼が言いたかった事だ。 僕は、ポケットに仕舞ってあった名刺を取り出し、もう一度しっかり見た。 隣りにいる和樹と目があった。僕がうなづくと和樹もうなづいていた。お互い無言のままうなずき合っていた。 和樹は僕のしようとしていることが、すでにわかったようだ。 全てを解決する糸口は愛知県にある。愛知県に行けば、何かがわかる。 それはまだちゃんとした形となっていない。あくまでも感覚としてだが。 いろんな事柄がパズルの欠けらとなって散らばり頭の中を複雑にしている。 それらは、やがて繋がりあい真実となって一つの形を形成するだろう。 愛知県に行けば・・・ 僕の決意は固かった。 探偵にでもなったような気分がしていた。 その日の暴風雨は、昼正午くらいにピークに達し、その後、しだいに勢力を弱め、夕方には静寂が訪れていた。雲の間から夕日が淡いレーザービームとなって限られたエリアに直射し何本もの光の帯が天空から大地へ続いて、斜めにはめ込まれた柱を形成していた。どうやら、台風は東沿岸に抜け、温帯低気圧にかわったらしい。今日一日のうちに、天気が目まぐるしく変わり、本当に台風が存在していたのかという実感が、少し薄らいでいるような感覚に僕たちは見舞われていた。テレビでは、台風十五号が残していった爪あとを報道していた。損害額というものは、計り知れないものらしい。 そんな中、僕たちは、今まで遊んだ分の貯金を下ろすべく、残っていた夏休みの宿題を、ものすごいスピードでこなしていた。 台風のおかげといっても差し支えないくらい、この一日というのは僕たちにとって、日ごろ使ってない頭をフル回転させる貴重な一日となった。体を動かしている訳でもないのに、お腹が空く。多分、頭を使っているので循環が良くなって代謝が促進しているんだろう。久しぶりに、こんな感覚を僕たちは味わっていた。 まさに今の頭の中が台風だった。 そんな時、勉強していると、ドアをノックして父ちゃんが入ってきた。 「おい、承。歩美ちゃんから電話だぞ。」 そう言いながら、僕に子機を差し出していた。 以前、味わった嫌な予感。 僕と和樹に緊張が走る。 「ねえ父ちゃん、今、歩美の声、眠そうな声してない?」 僕は思わず心配になり、受話器を手で押さえ、小声で父ちゃんに向かいそう尋ねていた。 「ああ、大丈夫だ。元気そうな声してる。」 父ちゃんも同じように小声になっている。僕はそれを聞いて安心した。 「父ちゃん、お願いがあるんだ。」 「何だ?」 「今から、僕が電話で歩美と話している間中、ずっとここにいて聞いていてほしいんだ。この前みたいな惨事が、いつ起こるとも限らないし。」 「ああ、いいよ。」 そう言いながら、僕の隣にきて椅子に腰掛けた。素直に聞き入れてくれるところをみると、父ちゃんも歩美のことを、すごく心配しているのが伺える。 和樹も、一旦勉強する手を休め、今から僕の話す電話の内容に注意して聞こうとしている。僕は、一瞬どのように話していこうか?困っていた。 唯一、頭の中にある考えは、努めて明るく振舞うこと。ただ、それだけ。 「もしもし。」 恐る恐る受話器に向かい話しかけてみた。 「もしもし。」 意外に明るい歩美の声。僕はそれを聞いた途端、緊張の糸が一気にほどけた。 よしこれならいい。 リストカットのことなんか忘れたと言わんばかりに努めて明るく振舞ってやろう。 僕は、そう心に決めた。 「歩美。どうした?お前どっかいってんの?川遊び一緒に行こうと誘おうと思ったんだけど。」 「ごめん。ごめん。お母さんが、いきなり旅行しようというものだから。」 かなり元気そうな歩美の声。 「え〜旅行?いいなあ〜。どこいるんだよ。」 「今、ひまか。」 「何だよ。いきなり。暇だから、こうしてお前と話てんじゃねえかよ。」 「違うわよ。今、愛知県の日間賀島って所にいるのよ。」 「何だよ。それ。紛らわしい事いうなよ。日間賀島って所にいるのかよ。」 和樹は、僕が間違えたことにケラケラ笑っている。電話の向こうで歩美も笑っていた。 「あれ?今、お前何て言った?愛知県って言わなかったか?」 「うん。言ったよ。」 「愛知け〜ん?」 僕と、それを聞いていた和樹は、思わず素っ頓狂な声を出して、ハモってしまった。歩美もか。なぜに最近になって愛知県ばかり耳にするのだろう?運命的なものがあり、僕たちを向こうに行かせようとしているのだろうか?確か、あの男の名刺の住所も愛知県。何か関連性のようなものがあるとでもいうのか?僕は電話で話しながら和樹と目が合った。これで確実に僕たちの羅針盤は愛知県に向いていること間違いなかった。 「おいおい、世はまさに愛知県ブームなんか?」 「え?何で?」 「いや、何でもない。ここ最近知り合った人が愛知県から来ていたからさ。」 父ちゃんが真剣に僕を見つめている。 「偶然の一致よ。それは。」 「そうか。それならいいんだが。それでもお前、いきなり決まったにしろ、出かける前に俺たちに一言くらい言ってくれてもいいんじゃないの?隣り同士なんだし。いとこなんだし。」 「うん。ほんとごめんね。」 「まあ、いいってことよ。どうだ?そっちは?」 「え?何が?」 「何がって。旅行先の出来事だよ。まさか、何もせず、部屋に閉じこもってる訳じゃないんだろ?」 「う、うん。綺麗よ。」 「何が?」 「ん?」 「だから、何が綺麗なんだよ。」 「ごめん。ごめん。景色よ。」 「そんなのわかってるよ。お前なぁ〜、二、三歳の子供に話してるじゃないんだぞ?だから、何の景色が綺麗なんだよ?いろいろ見たんだろ?もったいつけやがって。このぉ〜。」 「実は、まだ景色はあまり見てないのよ。明日から、いろいろ見ようと思って。」 「何だ。そうなのか?ふ〜ん。」 「ただ海で素もぐりはしてるわよ。ここ最近は台風でかなり荒れていたんだけどね。それでも何とか頑張って潜っていたの。」 「えっ?素もぐり?何だ?ダイブしてんの?いいじゃないか。羨ましい。ここ最近、台風が来ていたからな。事故しないように気をつけろよ。へぇ〜ダイブか。いいなあ〜。綺麗なんだろうな。ところで、そっちは食べ物はどうなんだ?美味しいか?もういろいろ食べたんだろ?」 「う・・・うん。」 「なんだお前。食べ物も、まだあまり食べてないというんじゃないだろうな?」 「食べたよ。いろいろ。」 「何食った?」 「カレーライス。」 「へ?カレーライス?お前、今、行ってるの、インドじゃないよな?愛知県だよな?お前、はっきりしろよ。食い物まで、もったいつけやがって。」 「いや、ほんとにカレーライス食べたのよ。」 「他には?」 「他?」 「他だよ。他。今、いろいろ食ったって言っただろ。」 「う〜ん。そうねえ〜うどん。」 「お前さあ〜。愛知県行ってんだろ?もっと、愛知県ってものがあるだろうがよ。」 「たとえば?」 「お前、そんなこと、俺に聞くのおかしくないか?」 「いろいろありすぎて思い出せないのよ。」 「お〜お。ごちそうさん。そりゃまたいいことですねえ〜あゆみんみん。たとえば、魚介類とかは、何を、お召しになられましたでしょうか?」 僕は、悪戯っぽく小悪魔的に言ってみる。 「魚介類?そうねえ〜伊勢海老?」 「え。まじ?いきなりそれかよ。いきなりそれは、反則技だろ。他には?」 「他?他は、あわび、いくら、かに。」 「ふん。ふん。他には?」 「鯛、まぐろ、、はまち、うに、ひらめ、えび、牡蠣」 「ふん。ふん。」 「ムール貝、アサリ、さざえ、しじみ、たにし、人手、珊瑚・・・」 「もういい。それ以上言ったら殺す。本当にそんなの食えるのか?何か嘘っぽいぞ。まあいいや。信じてやるよ。歩美。なんだよ、思いっきり、色んなもの食ってんじゃん。いいなあ〜。俺も、そっちに行きたいよ。それで、いつ帰ってくるんだ?」 「それがねえ。まだ、わからないのよ。お母さんの都合によるから。」 「そうか、わかった。あまり食いすぎんじゃねえぞ。デブって、帰ってきやがったら、石段二百段二往復させるからな。はっはっは。」 僕たちは、ともに笑いあった。 「まあ十分楽しんでこいよ。」 「うん。ありがと。」 少し沈黙があって、歩美が言った。 「承君。」 「ん?」 「いろいろごめんね。本当、承君には感謝してる。ありがとう。」 「ああ、いいってことよ。気持ち悪いじゃねえか。改まるなよ。」 「ごめん。」 「じゃあな。」 「うん。じゃあね。」 僕は、電話をきり、子機を父ちゃんに渡した。 「元気そうだったじゃないか。歩美ちゃん。」 「うん。この前のことはどこへやら。すっかり元気になっていたよ。」 「今、歩美ちゃん。愛知県に旅行行ってんのか?」 「そうなんだよ。いいよねえ〜歩美、今、ア・イ・チ・ケ・ンに旅行に行っているんだってぇ〜。うらやましいなあ〜」 僕は甘えるような声でいやみたらしく父ちゃんに言っていた。そして上目使いに父ちゃんを見てみる。 「いやだね。行かん。」 僕の意図するものが判ったようである。 「日間賀島って所に行ってるらしいよお〜。魚介類たらふく食ってんだってえ〜。」 「日間賀島。ふ〜ん。蛸とか、ふぐを食っているんだな。」 「ん?蛸?ふぐ?それが有名なの?一言も蛸、ふぐなんて言ってなかったよ。父ちゃん、何で知ってるの?行ったことあるの?」 「ん?いや、行った事はない。確か日間賀島は、蛸やらふぐが有名だって知り合いから聞いた事があるだけだ。」 「確かめるために、日間賀島行こうよ。蛸食べたいよねえ〜タ・コ」 「いやだね。絶対、行かん。イ・カ・ん。」 「お。出ましたね。絶対行かんモード。しゃれまで出ちゃったりして。そんな事言ってると、十分後ファイティングポーズを作らせ、行かせるモードにさせちゃうよ〜。」 それを聞いていた和樹が調子に載ってニヤニヤしながら言っていた。 「何とでも言え。今の和樹のおちょくったような言葉を聞いたら、殺されても絶対行ってやるもんかという考えになっちまった。絶対、嫌だ。馬鹿にされてまで行きたくない。絶対、行かん。」 父ちゃんはそう断言した。 それを聞いて僕は、すかさず舌打ちをして和樹を睨んだ。 ここ最近、和樹はKYなことも言わなくなったし、まともなことを言うようになってきたな。と思って関心していたのに、この有様である。今、サッカーボールを持っていたら確実に和樹のみずおちに向かってボールを蹴っていたと思う。 これで、この夏休みに家族で旅行するという確率は、皆無になったとみていいだろう。 「ところで、山田じいさんの事だけど、何か進展あったの?」 僕は心配になって父ちゃんに聞いていた。 「ああ。それか。父さんの友達に警官の友達がいてな。その人に聞いたんだが、なんでも水筒に青酸カリという毒が混入されていたらしいぞ。」 「えっ?青酸カリ?」 「ああ。どうやらそうらしい。またそれが不可解らしいんだ。」 「えっ?どういうこと?」 「水筒の中に入っているお茶が、ほとんど殻に近い状態だったらしい。三時間もの間、喉が渇いては、水筒のお茶を飲んでいたらしくその度に蓋に口をつけて飲んでいたという事だ。蓋に何度も飲んで口をつけた痕跡があったらしい。どうやら最後の一杯を飲んだ時に青酸カリが体内に入り毒殺という結果になったというんだ。それがつまりあの公園のベンチで起こった事。どうだ?謎だろ?最後の最後にそうなるなんて?今は、まだそういう因果関係も含めて警察が血眼になって犯人を捜しているらしいぞ。」 「ふ〜ん。まだ、犯人捕まってないんだね?」 「ああ、なんか容疑者を割り出すのに難攻してるらしいぞ。一人、それらしいのがいたみたいだが、証拠不十分で釈放されたらしいんだ。」 「へえ〜そうなんだ。早く捕まるといいね。」 「そうだな。」 と言いながら父ちゃんは、僕たちの部屋を出ようとしていた。 「そうそう、父ちゃん。」 「ん?何だ?」 「杉山 斉って、人、知ってる?愛知県から来た人なんだけど。」 「愛知県?そんな遠くから来てる人がいるのか?知らない。杉山 斉?その人が、どうかしたのか?」 「いや、知らないならいいんだ。ちょっと気になっただけ・・・」 「あまり知らない人に関わるのは、止めるんだぞ。へんな事件に巻きこまれるかもしれないからな。」 そう言いながら、父ちゃんは階段を下りていった。 僕と和樹は、お互いの顔を見合って舌をペロリと出したのであった。 改めて言う事なのだが、杉山と名乗る男は何故、父ちゃんの存在を気にしていたのか?これは初めて公園で出会った時からの大きな謎なのである。それを知るには父ちゃんから、男を知っているのか?ということを聞いておく必要があったのだ。 でもこれによって判った事があった。それは、父ちゃんは杉山という人物については、何も知らないということだ。和樹と公園で父ちゃんと会せようと企てたけど、お互いに知らぬ存ぜぬで終わってしまうだけだったかもしれない。一つの謎が解けたという程のものではないが、心の中にあるわだかまりが一つ消えてくれたということが嬉しかった。 そうかあ〜。まだ、山田老人を殺したという犯人は捕まってないのか。 あの時、山田老人は突然公園で僕たちの前に現れてベンチに座り、じっと見ていた点が不可解である。そんな事、今までに無かった事だ。それに犯人は僕たちがあの公園にいる時に、しかも山田老人の水筒に毒である青酸カリを混入するなんてよく出来たものである。不思議そのもの。あの状況を目撃していた僕だからこそ言えるのだが、どう考えても不可能である。一体、犯人はどうやって水筒に毒を混入したんだ?あの場所は唯一の木陰獲得場所。木の上によじ登って上から山田老人の飲んでいる水筒の蓋目掛け青酸カリを落とさない限り不可能だ。でもあの時、木には誰も登っていなかった。それは確かだ。ならば一体、どうやって?僕は、あの場所で山田老人と挨拶を交わした。第一それ以前の三時間、山田老人は一体どこに行っていたというんだ?痴呆になって徘徊でもしていたという事でない限り理由にならない気がする。でも違う。僕と交わしたあの言葉は意識もハッキリしていたし、いつもどおりのじいさんの声だった。年の割に太い張りのあるしっかりした声。痴呆じゃなかったという事は誰よりも僕が一番よく知っている。ならばなぜ?一体どこへ?到底解明も出来そうにないトリックを考えれば考える程、犯人の巧妙な手口にまんまと嵌っていきそうな自分を感じる。得体の知れない怪物に戦いを挑んでいる自分がいるのではないか?という気がしてならない。目に見えない脅威というものが僕の中で不安を与えていたのである。それに最近、僕たちは、あの杉山という男に関して美化しすぎて考えているかもしれない。まだ山田老人の犯人が捕まっていないという事を、念頭において考えなければならないからだ。男は証拠不十分で釈放されたという事は、証拠が出てきたら捕まるという要素は多分にあるわけである。油断してはならない。 |