歩美は砂浜に辿り着くと片桐刑事の所までしっかりとした足取りで歩いていった。何ら迷いなどを一切感じさせない徹底したものだった。 歩美は片桐刑事の前まで歩いてきて足を止めた。 「刑事さん。山田さんを、殺したのは・・・私」 歩美は言葉を選びながらゆっくりと言おうとした時だった。 「あゆみぃ。」 そう微かな声が聞こえた気がした。見ると沖から見えたサングラスの女性が歩美の近くまで迫ってきていた。手には折りたたみナイフが握られていた。 「きゃあぁぁーー」 ナイフが見えたことによる驚きでサングラスの女性の周りでは黄色い悲鳴があがった。 「みなさん、落ち着いて。大丈夫です。」 動揺しようとする周りの群集に向かい片桐刑事が叫んでいた。そう言うが早いか、ほぼ同時期にサングラスの女性は歩美の背後に回っていた。見ると、歩美の首筋にナイフをあてている。 「きゃあぁぁーー」 再び、同じ悲鳴が近くであがった。 「望、やめなさい。」 サングラスの女性は望なのか?近くにいた女性がサングラスの女性に言っている。年恰好はサングラスの女性と同じ位である。多分、この女性が今、歩美たちが泊まっている所の家の主、仲村なる人物であろうか?さっき話したあのお婆さんの身内に違いない。望と歩美、刑事、仲村で微妙なトライアングルが形成され、その周りをさらに僕たちと観衆で取り囲む形で人の輪が形成されていた。 「やめなさい。こんな事をして何になるんだ。」 片桐刑事がサングラスの女性に向け説得をする。 「もういい。私たちは、ここで死ねばいい。運も悪いし、いいことなんて全くないのよ。私は水商売しなくては、やっていけない状態だし、生活も苦しい。私たちは、もう生きていても仕方ないの。」 「落ち着くんだ。はやまるんじゃない。」 刑事が落ち着かせるよう促すとサングラスの女性は更に語気を強めて言った。 「驚いたわ。この子がリストカットして意識朦朧としている時に[お姉ちゃん、可哀相。あんな奴に騙されて。私が復讐してやったからね。]と聞いた時は・・・復讐?一体どういう事?その時よ。歩美の机の上にあるカメラが目に飛び込んできたのは・・・あれっ?これってもしかして私が苦労して敦子の誕生日の時に買ってやった小型カメラ。何で歩美が持ってるの?よく見るとこの子の足元に敦子の羞恥な写真が転がっている。そこでようやく私は事情が掴めたわ。公園で起こったとされる毒殺事件。私はそれを事件当日に職場で目撃者から聞いたわ。そう。そうだったの。この子だったのね。その被害者、山田さんを殺したのは・・・急いでタンスまで行き奥を調べてみた。やっぱり無い。いつでも死のうと思って隠しておいたはずの青酸カリが・・・しまった。何て事を・・・その時、見えたの。この子の将来が。この子は一生、殺人者のレッテルを貼られながら生きていかなくちゃいけなくなるって事を。この子は、そういった犠牲を払っても構わない程、姉を大切に思っていたのね。そしてリストカットまでして死のうとしたのよ。この子は。それなのに・・・私って・・・おまけに水商売をやってこんな有様。この子が可哀想。それにこの子は殺人者になってしまった。そんなんだったら死んだほうがいい。そうだ。この子と一緒に私も死のう。そう私は考えたの。所詮、私たちは生まれもって不幸な星の下に生まれた運命をもっているのよ。どれだけ足掻いても防ぎきれない運命にある。ここは私が生まれた所。ここで死ねるのなら私は本望よ。」 「のぞみぃ〜」 再度、それを聞いて仲村が叫ぶ。誰もが焦っている中、ただ一人、歩美だけが喉元にナイフを突きつけられているにも拘わらず冷静だった。歩美は静かに言い始める。 「お母さん。もうこんなことはやめましょ。私、自首することに決めたの。今まで私を庇ってくれてありがとう。私ね。心中することは良くないことと悟ったの。これからは、山田さんを殺したことに対する罪を償って生きていこうと思うの。償うことだけじゃ亡くなった人は戻ってこない。ましてや遺族の人たちは、そんな事だけじゃ許してくれないかも知れない。でも自分が死んで逃げることはもっと良くないこと。そう思うの。今まで弱いだけの私でごめんなさい。それにおかあさん、私はリストカットにより死のうとしたと言ってたけど、それは違うわ。リストカットは今思えば寂しさに耐えられなくなった弱虫な私がそこにいたの。言うなれば、お母さんが水商売始めたことの反抗でリストカットしたようなもんだった。でもそれはお母さん自身、生活資金を私達の為に少しでも稼ごうと思ってしてくれたことなんだよね?私は、それが判らず、お母さんに注目して貰おうと考えた。リストカットすればお母さんが注目してくれるだろうと。そう考えたの。そうすれば、お母さんが水商売を辞めてくれる。私は最初、なぜこうなったのか?悩んだわ。急に一つの家庭に災難が降りかかり生活環境が変われば後に残された母親は働く意欲を失くし、違う男と恋に溺れ、その子供は不良になっていく。半ばそういった言葉に自分で勝手にイメージの縮図を作り上げ、暗示を掛けていたのかもしれない。弱かったのね、私・・・私が困ったことをすれば、お母さんがどこまで付いてきてくれるのか?私は天秤にかけていたような所があった。そんな卑怯な事しても何も変わらないのに・・・馬鹿ね。私って。むしろ悪くなるばかり。そして思ったの。そんなくだらない事の為にお母さんを困らせちゃいけないと。もうこれ以上、お母さんを困らせちゃいけないと。しっかりと自分を持ったうえで何でも考える。そうすべきなのよね。これからは。常に明日の事を考えなくちゃ駄目なのよね。この後、私達の家族がいつ幸せになれるかは判らない。でも、生きてさえいれば・・・生きてさえいれば、いつかは幸せになれると思うの。雨は雨でも降り止まない雨なんてないでしょ?それまで何年になろうとも私を待っていて欲しいの。あきらめないで。お母さん。一緒に力強く生きましょ。だから心中するなんてやめましょ。」 歩美は、母親に向けて自分の全てを包み隠さず話していた。 後ろにいた母親のサングラスの下から、涙が頬を伝い一筋流れていた。 「あゆみ・・・」 手から折りたたみナイフが転げ落ちた。と同時に二人は共にその場で抱き合っていた。 「歩美、今まで寂しくさせてごめんよ。私を許しておくれ。私も水商売に手を出すことは本当はしたくなかった。でも仕方がなかった。私は・・・」 一瞬、躊躇いながらも次の瞬間、意を決したように歩美をギュッと強く抱きしめる。 「私は、会社をクビにさせられた。今まで働いてきた派遣の仕事を取りやめにさせられたんだよ。」 「えっ・・・?」 歩美の口から驚きの声が漏れる。僕も和樹もこれには驚いた。 「隠しておいてごめんよ。お前に心配かけられないと判断していたから。お前に話せられなかった。私のような人間が中途採用され、そこそこのお金を手に入れるには水商売しかなかったんだよ。それに・・・ 騙されていたの。あせっていたのね。母さんは。無理せずゆるゆると生活さえしていたら、こんな風にある人から口車に乗せられ騙されもしなかったのに・・・でも今のお前の言葉を聞いて母さんも目がさめた。目が覚めたんだ。母さんも自分をしっかり持つ。そう決めた。自殺することはすぐ出来るけど、何の償いにもなって無いものね。歩美。母さんは、いつになろうとも、お前を待っているから・・・」 そう言うと望は、声を喉に詰まらせ泣いた。 「ありがとう。お母さん。私に言えず一人で頑張っていたのね。それに気付けなかった私って駄目ね。今までごめんね。本当にごめん・・・」 そう言いながら歩美からも嗚咽が漏れていた。 「いいんだよ。歩美。いいんだよ。母さんの方こそごめんよ。」 しばらくの間、二人の抱擁は続いていた。親子が一つになれた瞬間である。 歩美も母親が水商売しなかったら生活が立ちいかなくなり鈴木のようになっていた事も、充分あり得る。運命というものは突然、そんな今まで何の変哲も無く暮らしていた家族にたった一度だけ起こった災難でさえも残酷に重くのしかかってくるものなのかも知れない。 どれ位の時間が経ったのだろう?意を決したように歩美は自分の母親に向かい言っていた。 「お母さん、どうか笑って私を見送って。泣いてちゃ、私の顔が見えないでしょ。じゃあもう私、行くから。」 望は、手を口に置き必死に泣かないように努めた。すでに泣いて泣いて泣き続けている。何か言いたくても、とても言葉が出ないという感じだった。歩美が僕たちに向け話し始める。 「承君。和樹君ありがとう。あなた達が、ここに来てくれたことにより私は力を貰うことが出来た。山田のおじいさんの罪滅ぼしに、生きて生きて生き抜いて罪を償うことを誓う事が出来た。ありがとう。私は、いつも承君と和樹君と一緒にいれてとても楽しかった。寂しくなかったよ。あなた達と一緒にいると何から何まで必死に生きる事が楽しくなってくるの。本当よ。何処行くのも、どんなときも、何をするのも。このまま承君、和樹君と一緒にいられたらいいなとずぅーと思っていた。でも、もうそれは出来そうにない。仕方ないわ、人を殺してしまったんですもの。これからは罪という名の十字架を背負ってしっかりと生きていくわ。今までありがとう。」 そこまで言うと歩美は俯いて地面に視線の先を移していた。 「歩美・・・」 僕の胸中は行き場を失った感情が交錯し合い、一つ一つの言葉を搾り出すので精一杯だった。 「歩美、ごめんな。俺、お前の事、全然判っていなかった。おれ・・・」 「いいの。いいのよ。承君。あなたは私のヒーローでしょ。それでいいの。」 「えっ?ヒーロー?」 突然歩美からそんな事を言われ僕はびっくりしてしまった。 「格好よかったわ。あなたが教室で鈴木君を守って福地君を殴り飛ばした事。あの時、私思ったの。もし私に何かあったとしても必ずこの人が助けてくれると・・・あなたは私のヒーローなの。あなたの何に対しても物怖じしないその真っ直ぐさが好き。あなたはそれでいいの。そして・・・承君、目を閉じて。」 歩美はそう言うと僕のホッペに軽くキスをし、僕の耳元でゆっくりと言った。 「そして私の一番大切な人。」 僕は思いきり顔が熱くなるのを感じた。周りを取り巻く人の輪がヒューヒュー冷やかしにかかる。多分、今の僕の顔は最高潮に赤くなっていることだろう。 「承君。そしてね。渡したい物があるの。」 歩美はそう言うと海の家の一角に置いてあった箱を取りに行き、僕に差し出しこういった。 「私には、お金がないから、こんな事しか出来ない。これは私からの気持ちよ。受け取って。」 それは十cm真四角の黒い箱だった。 「ありがとう・・・歩美・・・」 僕はその箱を受け取ると言葉が閊えるのを我慢していた。 「歩美、俺はいつまでも・・・いつまでもお前を待っているからな。」 声が詰まるのを我慢する。その言葉は歩美に向かっての偽りのない素直な気持ちだった。 「うん。ありがとう。再会したらまた髪を伸ばすわ。今まで楽しかったよ。何もかも。特にあなた達と遊んだ素潜り。最高だった。私は今日の事、絶対忘れない。」 「ヴォンベレスダイブ。」 そんなとき、ふと和樹が何気なく親指を立てながら言った。 「ヴォンベレスダイブ?」 歩美が語尾を上げ親指を立てながら言った。歩美の不思議がる顔には一点の曇りもなく明るく微笑む笑顔が戻っている。クリクリしたつぶらな瞳は輝き、口元にはいつもの真っ白な歯が顔を覗かせていた。 今まで見てきた中で今の歩美が一番輝いて見える。歩美の最高の笑顔は僕の気持ちを爽快な気分にさせてくれた。 「ヴォンベレスダイブ。そう素潜りのことさ。とにかく気にせずやってみなよ。という意味もある。」 僕も二人に、つられて意気揚々と親指を立てながら言っていた。 「ヴォンベレスダイブ。」 最後は三人一斉に大声で顔には満面の笑みをたたえ唱え合っていた。仕舞いには、海の家にいた人たち全員が訳も分からず大声を出し、僕たちに合わせてヴォンベレスダイブと叫んでいる。 夕焼けの海岸には寄せては返す波の音と共に、いつまでもいつまでもヴォンベレスダイブの潮騒が鳴り続いていた。 箱の中身。それは形、大きさが様々で色鮮やかに施された貝殻たちが箱一杯に詰め込まれていた。歩美がここに来て何日間もの間、長い時間を費やし僕の為に必死に取っていたであろうピンクや白や緑といった今まで見た事もない様々な模様をした貝殻たちだった。来る日も来る日も歩美は只ひたすらに貝殻を取っていた事を、それは意味していた。まるでブラックホールに吸い込まれていった星屑たちが行き場を失い小さな黒い箱に全て納められた歩美の銀河系宇宙がそこに有るように僕は感じたのである。歩美が僕に出来る精一杯の愛情表現だったのだ。 十年前 愛知県岡崎市(19XX年 9月) たかが秋といえども日没時間というものは早くなるものである。夏に夕方であった時間帯は秋になるともうすっかり夜という様相を呈し、全ての物を暗闇へといざなう。そんな中、案外と油断している人の心の中に魔の時間帯となって忍び寄るケースも少なくない。 「日が暮れるのも早くなったわねえ〜」 そう独り言のように呟き、美奈子は夜の矢作川の堤防を歩いていた。 「ン?」 隣りで手をつないでいた二歳になったばかりの長男が聞き返す。 「夜になったのよ、夜。」 「ヨォルゥ?」 「暗いでしょ?夜。」 と言いながら美奈子は押していたベビーカーの手を離し、その手を扇状に旋回してみる。周りが暗いということをアピールする為の伝達手段。本当にこれで伝わるのだろうか? 「ヨォル。クライ。ヨォル。ヨォル。」 長男は言葉を何回も反芻して覚えたばかりの言葉を自分なりに、もて遊んで喜んでいる。どうやら伝達出来たようだ。 「ダーッ。」 ベビーカーに乗っていた一歳になったばかりの次男がつられて喃語を発している。彼も楽しいようだ。 「早く帰らなくちゃ。」 美奈子はそう言いつつ歩を進めた。暗闇というものが人々の外出を制限しているのかもしれない。一ヶ月前、ここの堤防を通り過ぎたのだが、その頃と比べて今日は確段に人々の往来を減少させていた。というよりもこの日は皆無に近かった。この堤防から下にいくと国道が走る高架をくぐることになる。さらに高架をくぐり抜けると横道にそれ、それから百m下りた所に美奈子たちの愛の巣があるのだ。 「もうすぐだわ。」 そう言いながら美奈子は気合いを入れる。さすがに二人の子供を連れての移動は、たとえ短距離といえども大変である。車を使えばいいと思うのだが二十七歳になったばかりの美奈子には今日まで箱入り娘として育てられ運転免許を取ることさえも許されなかった現実があったのである。日間賀島で裕福な家庭に育った美奈子は島に旅行で訪れた今の夫と知り合い、恋に落ちて二十四歳で結婚したのだ。何不自由ない家庭生活。全て順調な滑り出し。何もかも全てが上手くいっていた。ただ唯一問題なのは夫の仕事が不規則なこと。外科医である夫は多忙な毎日を極め、連日といっていいほど緊急手術が入ってくるということがあり、病院にそのまま寝泊りするといった状況が多かった。昨日の晩も夫は家に帰ってこなかった。月何回かの当直当番であり、病院から帰ってこなかったのである。ならば、今夜は帰ってくるだろうと美奈子は思っていた。美奈子の期待に反し、日々過ぎ行く日常の出来事は、もろくもそんな二人の甘い生活を悪戯にイジメ抜いていた。先程、夫から電話が入り、昨日の交通事故で入院した患者が今日になって突然、容態が悪化。緊急手術になったので今日も帰れないという報告だったのである。 「あ〜ぁ」 美奈子は残念がった。今日こそは愛する夫に会えると思っていたのに・・・まあ、仕方ない。そんな時、美奈子は夫の労をねぎらい、少しでも夫が心にゆとりを持って働けるように夫を助けるのである。着替えと愛妻弁当を持参し夫の元へ届け物をするのである。妻の役目と称し実のところ夫に会いたいという意思表示をそれは意味していた。今のこの状況は、先程までそんな忙しい夫に対し病院で会って愛を配達した後の帰り道だったのである。 「もうすぐよ。もうすぐ。」 そんな時である。 「お恵みくだせえ〜奥さん。」 突然の言葉に美奈子は悲鳴をあげそうな程、驚いていた。 少し前に目をやるとボロ布を何枚も重ね着して破れてビリビリになったコートを纏ったホームレスが美奈子の顔をジッと見ている。いつの間に現れたのだろう。なんか気味悪い。 「金くれよぉ〜少しでいいからお恵みを。」 尚も続く男の取り急ぎ作ったような悲痛な叫び。 美奈子は構わず無視を決め込み歩を進めようとした。 「おい。聞こえてんのか?こら。お恵みをって言ってるだろ。」 男は急に声を荒げ、ドスの効いた声に変わり絡んできていた。でもこういうのは、相手になったら負けである。 「おい。」 男は尚も続けた。諦めずしつこく付き纏ってくる。 「おい。と言ってるだろ。」 「あの、すみません。今、私はとても急いでいますので。」 たまらず美奈子は口走っていた。自分一人ならまだ走って逃げればいいが、でも私は今、二人の子供をひき連れている。あまり男を無視していると男の感情に逆撫でして何をしてくるか判らない。そう思っての美奈子の判断だった。まさかそれが裏目に出ようとは・・・ 「何だと?このアマ。その言い方は?ふざけた事、言いやがって。こっち来い。なかなかいいケツしてやがるじゃねえかぁ〜」 男はそう言うと突如襲ってきた。 「いやぁ〜〜〜っ!」 持ち上げられる美奈子。置いてきぼりにされる二人の子供。上にあったはずの高架の景色が九十度回転し一瞬ムチのようにしなって見えた。男は物凄い力だった。暴れる美奈子を物ともせず、堤防を下り川までの距離を埋め尽くす草むらをズンズン分け入っていた。 「助けてえ〜」 美奈子は叫んだ。普通なら聞こえる声だが高架を走る車のエンジン音と周りを取り囲んでいる二、三mの背高泡立ち草が無情にも声の伝達を阻止していた。 美奈子は背高泡立ち草の黄色い絨毯の上にドカリと降ろされた。すぐさま男は美奈子に覆い被さり美奈子は体を押さえつけられた。休むことなく男は美奈子の服を破きに掛かる。ブラウスと下着が引き裂かれ、乳房が揉みしだかれる。 「やめてぇ〜!」 「いやぁ〜!」 美奈子のあえぎ泣く声。遠くで聞こえる子供達の泣き声。それは無情にも誰にも聞こえていなかった。それは近くの一つ一つが線香花火のように見える鈴なりになった背高泡立ち草の黄色い房を揺らしただけだった。男は野獣のように猛り狂いながら体を何度も上下運動していた。ホームレスであるがゆえの体臭が自分はいかにも獣であるといったことを証明し、清らかな美奈子の純白の肌に覆いかぶさり邪悪な香りを擦り込んでいるようだった。 高級なシルクに包まれた無垢な輝きと限りなき透明感に満ちた水晶が被いを剥ぎ取られ、今、まさに白濁しようとしている瞬間だった。 どれくらい時間が経ったであろう。 男は満足したように美奈子に背を向け脱いだ服を着ようとしていた。誰もが羨む美奈子の家庭は突如起こった惨劇によって破壊され、一瞬のうちに誰もが哀れむ家庭へと変貌を遂げていた。美奈子は、あられもない姿で寝かされていた。鬱蒼と茂る背高泡立ち草に囲まれ、なぎ倒された草の上に横たわり美奈子は夜空を見ていた。弾力性のあるこの簡易ベッドは幾重にも背高泡立ち草が折り重なった死体のようだった。その死体の山に築かれたベッドに横たわりながら降りかかる黄色い花粉の洗礼を浴び美奈子は涙をボロボロ流し続けていた。とめどなく溢れ出る涙。声を出さず穏やかに見える美奈子だが心の中は嵐が吹き荒れ、今まで作ってきた骨組みを一つ一つ自分で崩壊しているようなものだった。いつもならロマンティックに夫と見ている夜空の星が宝石ではなく骨の骨片のように至る所で散在していた。一つの流れ星。どうでもよかった。何かをお願いしなくちゃと思い巡らすはずなのに今の自分には今まであったものが消滅したんだとしか思えなかった。子供たちは?ふと我に返る瞬間だった。絶望の淵に落とされながらも正常な神経回路が一つだけ存在して残っていた。 「ママ、これ。」 見ると長男が近くにきていた。キラッと光るものが見える。何だろう?ナイフ。それはナイフだった。一瞬のうちに素早く回転する美奈子の思考回路。美奈子はホームレスを鋭く睨んだ。もはや怒りの感情しか美奈子は持ち合わせていなかった。 もうどれくらい時間が経っただろう。何度も訪れる時間錯誤の波。 「どうしたんだ?」 背後から聞こえた男の声にハッとなり美奈子は我に返った。 「君、まさか。」 男の声は明らかに狼狽していた。見ると前方に横たわる先程のホームレスがいた。心臓を一突きされ死んでいる。状況は最悪の展開となっていた。突如、美奈子に到来した怒りの刃はホームレスの心臓を一突きする形で実行されていたのである。どうしよう?と考える望みなど今の美奈子には持っているはずもなく自分は地獄の扉を開け、今から奈落の底へ向かうんだという心構えしか美奈子の心には無かった。もうこうなったらどうなったっていい。死のうか?それもいい。もう自分はお仕舞いなんだ。さもなくば、このままジッとしていれば男が私を警察に突き出してくれる。それもいい。突き出されたならば、素直に刑罰に従おう。でもちょっと待って。もしこの事が世間に出れば、夫の昇進に大きく影響する事になるのは間違いない。あの人が今、汗水たらして病院で必死に働いているのに私が邪魔をする事になってしまう。どうしよう。一体、どうしたらいいの? 美奈子は、そう思い巡らすと堪らず涙ぐんだ。 男は美奈子の近くまで来るとこう言った。 「とりあえず、あんたの亭主には、このこと連絡しなくちゃな。」 「やめて。」 「だって君。」 「もうお仕舞いよ。これで私の全てが終わったんだわ。もうあの人には会えない。殺人者の亭主なんて事になったら、あの人の昇進に大きく影響する事になる。夫に知らせる事だけは、やめて。もうあの人に会わす顔が無いわ。私は静かにあの人の前から消えたいの。私を今からここで殺して。お願い。」 「君、そんな事・・・」 「やっぱり無理よね?ごめんなさい。こんな無理なお願いして。」 そう言うと美奈子は、川に向かい歩んでいこうとした。今すぐ投身自殺するつもりらしい。 「ちょっと待て。やめるんだ。早まった事をするんじゃない。」 事情を素早く察した男は美奈子の自殺への暴走を食い止め、全ての行動を制止させると何を思ったのか自ら死体のそばにズンズン近寄っていったのである。女からそんな事を言われ困っているはずの男だったが行動は非常にテキパキとしていた。男は、おもむろにホームレスの胸に突き刺さっているナイフを両手で力一杯握りしめると、早々と抜き取った。その瞬間、継ぎ目が破れて内容物が湧き出るかのようにホームレスの皮膚に食い込んでいた傷口から血が飛び散り、中からさらにドクドクと噴き出てきたのである。男はナイフを右手に持って川面をジッと見ていた。次の瞬間、ビュッという音と共に男はナイフを川面へ向かって投げたのである。えっ?何だろう?この男は何をしたいのだろう?一瞬、訳がわからなかった。 チャポン 放物線を描いたナイフは水面に接すると川の底へと沈んでいった。 続いて男は死体を担いでいた。 バッシャーン 川沿いまでくるとホームレスの死体を川へ放り投げていた。 次から次へと繰り出す男の不可解であり意味不明な行動。 月夜に怪しく照らし出されながら男は、しばらくその場に黙ったまま突っ立っていた。 夜空をぼんやり見つめていた男はやがてゆっくりと美奈子に顔を向けると静かに言った。 「こいつは身元が判らないホームレスだ。今、逃げれば何とかなる。僕と一緒に逃げよう。」 悲しそうな顔を美奈子に見せていた男だったが、その一方で、暗闇の中、美奈子に判らないように一瞬ニヤリとしたのだった。 その三十分前 公園 日も暮れかけた夜の公園はすっかりと静まり返り静寂が周りを包む。 公園の一角にブルーシートで覆われダンボールで形作られた簡易建造物。 突然、パッと建物内部で電球が点き隙間から光が漏れた。 「ふぁ〜段々と寒くなってきやがったなあ〜。」 建物内部から目覚めたばかりの寝ぼけた声。この一角だけは生命の息吹が感じられる。 その建物の前に一人の男。いつの間に現れたのだろう?その男は建物内部に向かい外から話しかけた。 「ちょっと、いいか?」 突然の呼びかけに建物内部に緊張が走る。ゴソッという音とともに内部の男は構えている。 「誰だい?あんた?」 入り口の紐仕掛けになっているブルーシートがゆっくりとロール状に持ち上がり、そして上がり終えた所で警戒するような低い声と御機嫌斜めの顰め面が外の男に向けられる。ここの所、ホームレスが殺されるという事件が多発している為、そうなっても仕方ない。 「ちょっと頼みたいことがあるんだが・・・決して悪いようにはしない。」 男は中のホームレスの質問には完全に無視で用件を一方的に言っていた。 「・・・」 無視された事に対する憤慨も無くホームレスは、男を目でしっかりと伺い吟味していた。警察でも無さそうだし、かといって何処かのチーマーに属するほどの若者でも無さそうだ。 「何だい?頼みごとって?」 ホームレスは何の疑いも持たずその男に尋ねていた。 「ある女をレイプして欲しいんだ。勿論、ただでやって貰おうとは考えていない。二十万でどうだ?」 男は、手っ取り早く用件を伝えるため他には聞かれないように早口で言っていた。 「二十万?」 ホームレスは突然の男の申し出に目を丸くしている。ここ最近二十万円なんて大金、とてもお目にかかっていない。しかもレイプ出来るという好条件の下。 「そうだ。今ここに、現金を用意してある。これはちゃんと遂行した後に報酬としてお前にやる。どうだ?それでお願いできないか?」 「う〜ん、そうだなあ〜。どうしようかなあ〜」 勿体つけてホームレスは、わざと悩むふりをする。本心は、今すぐにでも引き受けたい気持ちではあるが・・・ 「無理ならいいんだ。他をあたるから。」 「ちょ、ちょっと待ってくれ。やるよ。俺がやる。どうすればいいんだ?」 ホームレスの答えは躊躇することも無くイエスであるに決まっているようなものである。逸る気持ちを抑えることが出来ない状態にまで本当は到達している。 「じゃあ、今から一緒にきてくれ。」 男はそう言うとホームレスを近くに停めてあった車に乗せて走っていた。 五分くらい走っただろうか?そう遠くない距離を車は走り川の堤防にくると急に停まった。 「ここから下りていったところの高架下に、俺たちからちょうど反対側、つまり向こうからこっちに向かって二人の子供づれの女がもうすぐ通る事になる。その女をレイプして貰いたい。そしたらこれをお前にやる。いいか?出来るか?」 男は端的に用件を言うと、おもむろにカバンから現金を取り出してみせホームレスに見せびらかす。どうやら二十万は嘘ではないらしい。 「了解でっせ。」 血の滴るような肉を見せつけられた狼は、何も考えず了解したというように、ただただ目的のみを果たすため車から素早く降りると躍動感みなぎらせ高架下へと一目散に小走りに走っていった。男は一人、車内に残りホームレスの動向を監視する。 「全く活きがいいだけの単純馬鹿だぜ。あいつは。しっかりやれよ。お前は、もうすぐ死ぬんだからな・・・このシャバにいられるのも、そう永くないんだから。」 男は、そう車内で一人呟くとニヤリとホームレスへ向けほくそ笑んだ。 それから五分後、女は来た。二人の子供をひき連れている。男の計画どおりだ。男は女が行きにここを通り過ぎた時間から逆算して計算しておいたのだ。 ホームレスは、女の近くまで近寄り何やら話している。よしよし。順調。すべて順調。 問題はこれからだ。ホームレスは突然、女を持ち上げ草むらへと分け入った。 泣き叫ぶ二人の息子。暴れる女。 よし。行くか。男は気合を入れるとカバンからナイフを取り出し車から降りて高架下の泣き叫ぶ子供達の所までゆっくり歩いていた。 「ママ〜ママ〜」 ベビーカーの周りで泣いている子供を抱き上げる。 「どうした?ぼく。」 「ママ。いっちゃった。」 「どこへ?」 「あっち。」 草むらへ指を指し、ヒックヒックしている。 「いやぁ〜。」 草むらから激しく泣き叫ぶ女の声。 ただならぬ状況に追い込まれているのを二歳の子供は母親がいる方向に顔を向けながら心配そうに見ている。やがて暫くすると女の声は止んでしまった。 「おじさんと今からママの所まで行こうか?助けなくちゃな。」 そう言うと男はベビーカーの赤ん坊はそのままに、おそらく兄であろう歩行可能な子供のみを抱きかかえ草むらの中をすすんでいったのであった。残りわずか五mになったところで子供を降ろし向こうの二人を覗いてみる。体が共に重なっている。やがて上になっていたホームレスの体が激しく上下に動いたかと思った瞬間、二人は動かなくなっていた。 その後、ホームレスは疲れたように体を引きずりながら女から離れた。男は、それを見逃さなかった。全て男の考えたシナリオどおりだ。 「いいかい?これをね。これをママに渡しておいで。」 男は、低く絞り出すような小声で子供に向かい頼んでいた。子供に渡した物・・・それは、ナイフだった。 現在 日間賀島診療所 僕たちは、島に一つしかない診療所の待合室の椅子に座っていた。 なんとも風光明媚な所に、それはあった。眼下には、海が広がっている。海の向こうには、篠島が浮かび、さらに奥にいくと左端から右に向かい半島がニョキニョキと伸びている。 夕日が垂れ込み、太陽の光が雲の隙間からエンゼルロードを形成し、幾筋かの帯となって遠く向こうの伊勢湾を照らし出している。空と雲と太陽と海。それらが生み出す美の競演。夕日は絶妙な色のコントラストを織り成し、絵画に出てくるような神々しいロケーションを演出していた。そんな中、診療所にも西日のスポットライトがあたって真っ白な壁を黄金色に焦がしていた。 僕たちはそんな診療所へ歩美と別れた後、謎の男を尋ねて名刺を頼りにやって来たのであった。 ちょうど患者の診察中らしく僕たちは少しの間、待たされていた。 「なあ、和樹。あの人っていったい、俺たちの・・・」 僕は、次の言葉が言えなかった。だってどう考えたっておかしい。僕たちには、栃木県にちゃんとした父ちゃんという存在があるからである。そんな事、あり得ないと思うから上手く言葉となって僕の口から言うのを阻んでいる。 「やっぱり違うよなあ〜。」 「兄ちゃん。違うに決まっているじゃないか。」 和樹も僕と同じ事を考えていたみたいだ。 「だよなあ〜。」 「そうだよ。それは、おかしいよ。」 「でもさあ。干物屋のおばあさんが、言っていたじゃないか?」 「他人のそら似。」 「そうかなあ〜?」 「そうだよ。」 「でもさあ。干物屋のおばあさんの言っていたことが正しかったとしたら、栃木県であった出来事も辻褄が合うんだよ。」 「どうしてさ。」 「だってしつこいほど、俺たちとキャッチボールすることに興味を持っていただろ?あれって、自分の息子とキャッチボールしたいと本気で思ったから遠路はるばる来たんじゃないか?と思うんだよ。」 「それは却下。兄ちゃん、うちの父ちゃんとキャッチボールする時の、あの嫌々ムードよく知っているよね。あれが、本当に息子とキャッチボールしたがっている顔に見えるかい?」 「どう考えても見えない。」 「だろ?」 「まあ、そうだけど。人それぞれの価値観って違うだろ。」 「何が言いたいのさ。あのおじさんは、つまり僕たちとキャッチボールすることに生き甲斐をもっていたということ?わざわざそんな事のために?学校に無断侵入してまで?石段二百段上がってきてまで?そりゃあプロ野球のプレーヤーやらスカウトマンならあってもおかしいことじゃないと思うけど。でも兄ちゃんここ何に見える?少なくとも野球場には見えないよね。」 「そうだな。」 「それにさあ。もし僕たちの親だったとしてもだよ。何で今になって現れてくるんだよ?別に、もっと先に僕たちと会ったっていいじゃないか?」 「だよなあ〜」 そうなのである。しつこいと言われるかもしれないが、僕はまだあの男を信じていない。それは今言った和樹の言葉に尽きる。仮に僕たちの父親だったとして何故今になって現れてきたのだろう?それにだ。理由はあるにせよ所詮、僕たちを捨てた人間ではないか。そんな人間を僕は許さずにはいられない。 そんな時、いきなり診察室のドアがギィーッという音と共に開き老人が出てきた。老人につられる形で、白衣を着た男と看護師が一緒になって出てきていた。 その白衣の男は栃木で見た杉山という男そのものだった。見た感じ栃木県で会った頃よりも痩せた感じがして、顔色がさらに悪くなっていると感じるのは僕だけだろうか? 「じゃあね。登作さん。尿糖は今回出てなかったから糖尿病は心配しなくていいよ。あとは、血圧だ。今回ちょっと高かったんでね。それを、次は気をつけていこうか。」 「わかりました。先生。ありがとうごぜえます。」 「はい。じゃあこれでいいよ。」 「ところで先生。わしの糖尿病はどうだったかの?」 看護師がそれを聞いて思わず吹き出している。 「ん?ああ、糖尿病ね。正常だったよ。」 「バツかえ?」 「いや、違う違う。」 杉先生は、老人に向け手で丸を形作っていた。 「マル。聞こえたかい?マル。」 杉先生は老人の耳に自分の口を近づけて大きな声で丸と言っていた。 さらに二の腕、つまり上腕二頭筋の筋腹あたりをもう一つの手で覆い、そのあと両手でバッテンを形作っていた。 「血圧ちょっとバツ。聞こえたかい?血圧ちょっとバツ。」 杉先生は尚も老人の耳に口を近づけて言っている。 「ああそうかい。先生。わしは耳が遠いんでね。よく聞こえんのよ。ごめんよ。先生。申し訳なくってよ。」 「いや、いいよ。登作さん。全然いい。元気なら、それでいいんだ。」 「えっ〜?」 やれやれという感じで看護師が呆れている。 「元気なら、マル。聞こえたかい?二重マル。」 「ああ。はっはっは。」 「はっはっは。」 老人は笑い、つられて杉先生も笑い、看護師もそれにつられて笑い診療所の中は、笑いで充満する。 老人は玄関の所まで来るとくるりと杉先生、看護師に向け体の向きを変えた。 「杉先生、ところで酒好きかの?」 そう老人がいうと杉先生は看護師に判らないように体で影を作りながら手で丸を形作っている。 「あ〜駄目よ。登作さん。これ以上、先生にお酒を与えては。先生の肝臓かなり弱っているんだから。」 看護師は、二人のやりとりを理解したらしく老人にそう言っている。 「ちょっくら、外いって取ってくるでの。待っててくれのお。」 老人は、看護師の言葉など気にも留めず外に止めてあった自転車までいったかと思うとカゴの中から何かを取り出し、戻ってくる。 「杉先生。うちのドラ息子の奴が、今、屋久島に住んどっての。毎年、焼酎を送ってきやがるのさ。何でも有名みたいでよ。三ヶ月待たないと手に入らない代物らしいんだがの。 これいつも世話になってるわしからの杉先生へのプレゼント。」 杉先生は、いいのかい?そんな大層なものを僕が貰ってというような驚いた顔を老人にして見せ、片手で拝むふりで深々とお辞儀をしている。 「さてと。杉先生の人柄につけこんで、わしもすっかりここに長湯しちまったようじゃの。どれ。もう帰ろうかの。悪かったの杉先生。何かと迷惑かけちまってよ。おおきに。」 そう言うと老人は両手を合わし合掌した後、診療所を出て行った。 「おおきに。登作さん。気をつけて。」 つられて杉先生もそう言うと老人に向けて手を合わせていた。 「だめでしょ〜先生、自分だけの体じゃあないんだから。言ってみれば島全体の人の体なんだから、大切にして貰わないと。離婚されて再婚もせずお一人で住んでいらっしゃるので、余計にご自分の体の健康管理には注意していただかないと。先生はこの日間賀の神的存在なんですからね。」 看護師が笑いながら杉先生に横槍をいれている。 「はい。以後気をつけま〜す。」 杉先生は高い声で、そう言うと二人は、共に笑い合っていた。 「よし、じゃあ今日はもうそろそろ閉店しますかな。辻さん、私があと戸締りしておくから、帰って貰っていいよ。」 「わかりました。先生。今日は何かと楽しみな用事がありますものね。」 そう言うと看護師は笑いながら一瞬、僕たちを見たのだった。 「じゃあ先生。お先に失礼します。」 「はい。お疲れさま。」 「君たち、う〜んと先生に甘えるのよ。いいわね?」 「おいおい。辻さん。」 そう言うと、看護師は白衣のまま小走りに帰っていった。杉先生は頭をポリポリ掻いている。僕たちは、その微笑ましい光景に人の温かさといったものを感じとっていた。 「ごめんよぉ〜待たせたね。承君。和樹君。ほんと申し訳ない。驚いたなあ〜。あんな遠くから、わざわざ会いにきてくれたんだ。ありがとう。ほんと感謝してる。」 杉先生は老人と看護師を見送った後、僕たちの所まで来ると大変申し訳なさそうに謝った。 栃木で会った時の柔らかくて温かみを持った声が、僕たちにそのまま掛けられていた。 「君達、二人だけで来たのかい?」 「うん。」 「ここまでどうしてきたんだい?電車とかを乗り継いできたのかい?」 「ヒッチハイクです。」 僕は控えめに応える。 「ええ〜っ。すごいね。君達は。勇気あるんだねえ〜。さすがだ。」 「医者だったんですね?」 「ん?おじさんかい?う・・・うん。そうそう。ヤブだけどね。はっはっは。」 「栃木では、何かと失礼なこと言ってごめんなさい。実を言うと僕はあなたが山田さんを殺した犯人だと思って勘違いしていました。すみませんでした。」 「いや、いいんだよ。全然気にしてないから。」 「川で和樹を助けてくれてありがとうございました。」 機械的に話す僕がいる。まだ僕はこの男を完全に信じていないからそうなる。僕の悪い癖だ。 「どういたしまして。なんかそこまで君達に改まって貰うと、こっちは体でも痒くなりそうだ。」 「先生。」 「いや〜止めてくれよ。君たちに急に先生なんて呼ばれるの恥ずかしいじゃないか。栃木で言っていたようにおじさんでいいよ。」 「おじさん。」 「ん?」 「僕たち、干物屋のおばあさんに、[杉先生の息子達がこの日間賀に帰ってきた。]と言われたんだけど。それって、・・・」 「えっ?」 杉先生の体が一瞬ギクリとなった。 「それって、いったい・・・」 「・・・」 杉先生は急に無口になって何も答えない。 「そうなの?」 「・・・」 「やっぱりそうなんだね?」 「ちがう・・・」 「えっ?」 「ちがうよ。何言ってるんだい。君達にはちゃんと父親がいるじゃないか?そうでしょ?」 「う・・・うん。」 その時、僕のお腹がキュルルと鳴った。 「あ〜聞こえたぞ。お腹の虫を飼っているな。そいつにエサを与えなくちゃ。よ〜し今日の仕事は、もうこれでおしま〜い。今からどこかに食べに行こうか。ちょっとここで待っていてね。今から着替えてくるから。いいかい。待てるかな?」 「うん。」 僕たちは、元気よく頷いていた。やったあ〜ようやくありつける食事。考えてみれば、僕たちはトラックの運ちゃんにおにぎりを二つ貰って島に到着して干物を、つまみ食いした以外、何一つ口に入れてなかったのだ。 あ〜腹へったあ〜。実をいうともう死にそうなほど腹が減っていたのだ。 「よ〜し。いい子だ。」 僕たちは、杉先生に頭をグリグリなでられていたのだった。
|