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ピッ。電源を入れる。

モニター画面が急に明るくなったと思った瞬間、ローマ字だの数字だのといったランダムに配列されたプログラムワードが凄まじい速さで画面上を駆け回る。次々と繰り出されるその文字列は次から次へと現れては消え、新しく誕生した文字列にバトンを渡し、役目を終える。見る者にとってそれはまるで暗号化された無秩序な配列になっていて機械内部の複雑さを印象づける。そして下部に取り付けられたコントロールパネルでは、細部に至るつまみ一つ一つに電飾が灯ることになっていて、光の点灯、消灯が順を追ってウェーブしている。今、この精密機械は自分の内部を異常箇所があるのか?ないのか?自分自身で探査している証なのだ。次の瞬間、突然、光のウェーブが消えると共に、全部のスイッチが一斉に点灯し、モニター画面が息を吹き返し始める。これが準備完了のしるし。

ブルゥーーーン

モーターを使って機械内部に仕掛けられたファンが突然、物凄い唸り声をあげて回りだす。

ここは夜の診療所。男は一人、超音波診断装置という医療機器の前に座っていた。右手にはプローブといわれるペンキを塗る刷毛のような形をしたものを持っている。その上にゼリーをのせて右の腹部と肋骨の間である右季肋部直下、つまりみずおちの右やや下にあてていた。このプローブというものは、触るものとモニター画面とは互いに連動していて、それを体に押し付ける事によって、体内の臓器というものが画面に見えてくるしくみになっているのだ。さあ、見えてきた。モニター画面いっぱいに広がる均一なマダラ模様。これが肝臓。男は尚もグリグリとプローブを押し付けて順序よく観察を続ける。やがてそのマダラ模様はグニョグニョと藻状に動き出し、モニター画面を一杯に埋め尽くすようになる。その後、暫くすると中央に二つのサークルが、それぞれ並ぶように、はっきりくっきり見えてくる。男はそれを見た瞬間、食い入るように体を持っていき、突き刺すような視線を画面に鋭く向けながら、眉間に深い皺を寄せる。そのサークルはそれぞれにおいて辺縁が黒く縁取られた低エコー帯になっていて、ドーナツ状を形成している。中央においては一際白く輝く高エコー帯が出来ており、細胞の核のようなものが一つの斑点となって浮き出ている。アニメ化した目がそこにあると連想しても全然おかしくない作りである。それを確認した男は段々と顔が強張っていき、次第に仮面様顔貌へと変化していく。やがて決心したようにポツリ力無く呟く。

「ブルズアイサインか・・・」

男は一言、躊躇いがちに言いながら深いため息を漏らす。瞳を閉じて頭を何度も左右に振り続ける。次の瞬間、片方の手で頭を掻き毟りながら髪の毛をグチャグチャに乱れさす。様相からして、とても信じられないといった感じである。その理由は勿論、ブルズアイサイン。牛の目のように見えるところからその名になったと言われる。これの意図するもの。

そう、肝臓癌。しかも転移によって巣食ったであろう転移性肝癌。癌細胞が門脈という血管に乗って肝臓に転移した後、静脈を通って肺、心臓に運ばれる。そして全身の至るところに運ばれているかもしれないということを、それは意味を持つ。男は初めてその姿を見る。あまりの驚きに、しばらくの間、頭の中が真っ白になる。急にトドメを刺された現実に今いち実感が湧かずどうしたものか?再度、目を開けてみたのだが、ただただ呆然と画面を眺めているばかり。とても現実を受け入れる余裕など今の自分には無いといった感じだ。まさに放心状態。そんな中、ただ唯一、男の体内だけが忙しく循環していたのだった。

悲しみと絶望という名の塊が、涙腺を通り腺内を埋め尽くすように一杯になる。次から次へと侵入してくるそれらの塊が、前のものを押し上げにかかっている。それに伴ってピストン運動のように押し出された塊は、目じりで雫を形成し頬を伝わる。ふと男は、手の甲に生暖かい滴が落ちるのを感じる。気付くと男は自然に泣いていた。

[これはブルズアイサインに間違いない。参考文献に何度でも載っているやつだ。いつも患者さん相手に、この機械を使い、疾患の有無を調べていたのだが、まさかその診断が自分にくだされようとは・・・しかも一番あって欲しくない致命的なものが出現する形で・・・

今こうしていても、この私の体を、少しずつではあるが蝕んでいるに違いない。まるで地中深くに潜っている蟻が尚も休むことなく掘り進め、働き続けているように・・・

これでも今から七年前の話になる。健康診断で偶然、私は胃に癌が見つかった事があった。進行癌だった事もあり、早々に胃を切除して、私は抗がん剤を併用しての治療に専念する道を選んだのである。これを期に、当時働いていた病院の外科医を一旦中断しなければならなかった。出世を考えていた私にとってこれは非常なる痛手であった。でも背に腹は変えられぬ。まず病気を治す事が先決だと考えたのである。その時は、病気に対して私は負ける気などこれっぽっちも無かった。ずっと抗がん剤治療を続けていたし、吐き気、だるさという副作用にも耐えていたのだ。そして効果が無いと判ればこれまで何度も抗がん剤を変えて試してきた。癌は、何かと厄介だと知っていたのでそうしてきたんだ。落ち着いたらまた仕事に復帰出来るだろうと私は気楽に考えていた。でも駄目だった。結局、治療にかけるあらゆる犠牲から私は、病院を辞めらざるを得なくなったのである。それから島の医者になり現在に至っている。ここ最近、症状は安定していたので、もうこれで心配ないと私は勝手に思っていたのだ。それがどうだ。実に私は愚かだった。まさか肝臓にその病魔が巣食っていようとは・・・まあ確かに、ここ最近、何かおかしいな?とは思っていた。体の変調を感じていたのだ。体全体がちょっとした事で疲れを感じるようになっていたし、見た感じ、少しむくみがあるように感じられた。手掌に赤い斑点のようなものが出来ていて、目を見ると少し黄疸も出ていた。もしや?と思い、今回このような形でエコーの機械で調べる事となったのである。自分は最初、右季肋部に違和感はあるものの、多分大丈夫だろうと安易に思っていた。そりゃあ全く心配なく思っていたのかと聞かれれば嘘になる。今話した私の諸々の症状から、ただならぬ病魔が牙をむくかもしれないという予感がしていたのも正直な気持ちである。言い訳になるが、ここ最近は、島内の診療に忙しすぎて、自分の病のことなど気にする余裕など全然なかったのだ。医者の不養生とはこのことである。でもまさかこんなにも醜い病魔が潜んでいようとは・・・病魔は私の知らない所で奇襲攻撃をかけ、体の至る所に侵略し続け、早くも征服した事による優越感に、影でほくそ笑んでいたんだ・・・きっと、七年前、胃に癌を発見した時からもうすでに癌の奴は肝臓に遠隔転移していたに違いない。ジワジワとゆっくり私の体に浸み込んで、奴は今日のこの日が来るのを今か今かと心待ちに待っていたに違いない。]

突然、そんな中、ふと気付いた事があり左鎖骨上窩を周辺部から中心に向けて触ってみる。左右非対称で弾力のある石のように無痛性の堅い塊。それが手に触れた瞬間、男は気持ちの動揺を隠す事が出来ず、慌てて周波数の違うプローブに持ち変え、左鎖骨上窩に向け押し付け観察を試みていた。分様状になった不均一になった高エコー帯で描写される腫瘤形成。[やっぱりあったか・・・精密検査してみないとハッキリ判らない事ではあるが、もし私の読みが正しいのなら、多分これはリンパ行性にも癌細胞が飛んで行き、ウィルヒョウ転移した事への証。って事は私の癌は程度を表すならば胸管を経由して遠隔転移していったとされるレベルⅣ・・・駄目だ。何でもっと早く気付かなかったんだ。もうすでに、癌の奴は、ばらまかれて色んな所へ運び込まれ、私の体のそこかしこに繁殖し巣食っているじゃないか。じゃあ、一体、今まで苦しみに耐え、ジッと我慢して治療を続けてきた私は何だったんだ?私の中では抗がん剤治療による奏功率というものが、治療する上で大切となる大義名分のようなものだったし、またそうする事でエビデンスに基づいた治療が出来ると考え、今日まで抗がん剤治療を我慢して続けてきたんだ・・・副作用からくる苦しみに耐え、高価とされる抗がん剤治療を受けてきたのに・・・ずっと今までもそうだった。パターナリズムに大人しく従ってきたし、ノーマライゼーションの概念を取り入れ自分にとって一番大切なクオリティーオブライフ、つまり生活の質というものを犠牲にしてきたというのに・・・一体何だというんだ。その結果がこれなのか?何の得があったというのだ?これじゃあ、抗がん剤治療を受けずに素直に死を受け入れた方がよっぽどよかったではないか?そうすれば何も苦しむ事は無かったのに。今までの私とくれば、もう心配ないと安心し、すでに治療を中断していたのに・・・それがこんな形で報いが来ようとは・・・もう駄目だ。自分はそう永くない。]その黒く縁取られた円の直径を計ってみる。八mmと十mm。[どうせ同じだ。測ったところで知れている。何になるというのだ。自分は、どのみち死んでいくんだ。よくここまで癌をほったらかしにしていたものだ。自分でもその怠慢さに関心する。肝臓が沈黙の臓器と言われ恐れられている由縁である。しかも肝転移は根治性が期待出来ないと言えるやっかいな奴だ。しかもウィルヒョウ転移まで・・・血行性そしてリンパ行性・・・あ〜もう何たることか?自分は何でこうもついてないんだ。今、何かを考えようとしても、全てをネガティブに考えてしまいそうな気がする。吐露する言葉は、きっとどれも独りよがりな恨み言しか言わないだろう。まあ仕方がない。急に再度、自分が不治の病に侵されている事を知ったのだから・・・いや。駄目だ。駄目だ。こんな風に、ひるんではいけない。私は、ここまで弱い人間だったか?そうではないだろう。何を血迷っているんだ。私はこんな弱い人間ではないはずだ。今まででも、どんな辛いことがあろうとも前向きに考えて克服してきたじゃないか?負けないよう自分自身を叱咤激励してみるか・・・今ある現状をどう対処すべきなのか?せめて今、遣り残したことはないか?考えよう。それが先決だ。そうする事が今の自分を奮い立たせるきっかけになるかもしれない。そうすればこれからの限られた時間を有意義に使うことが出来る。]

画面に映し出された獰猛そうな牛の両目が、(どうだ?傷ついたか?ざまあみろ。)と言って男を威嚇し、モニター画面からジッと見据えている。

[このまま自分は孤独のまま死んで行くのだろうか?孤独?いや私は、ここでは孤独だが、違う所に私の分身がいる。孤独ではない。十年前、妻は何も言わず出て行った。ほんと突然だった。当時、承は二歳で、弟の和樹は一歳。妻は二人の子供を抱えて私の前から忽然といなくなったのである。正直な所、何故、妻は出て行ったのか?今でも、その理由が、はっきりとわからない。

なぜなら前日まで、私達夫婦は何一つ不自由することなく暮らしていたのだから。

妻はすぐに戻ってくるだろう。私はそう軽く考えていた。二日たち三日たったところで家を出て行ったんだとわかった。随分、私の事を、まぬけな奴と思うかもしれない。あの頃は、ほんと仕事が忙しかったんだ・・・

しばらく経って離婚届けが送られてきた。捜索願いを警察に出そうかと思っていた矢先の出来事である。それを知って私は、あまりの出来事に愕然とした。そこには何と住所が栃木県となっていたのである。なぜ、栃木県?遠く離れた所に住んで私の存在を忘れたかったのだろうか?でもこうなったからには仕方ない。波風立てず、そっとしておいてやろう。そうするしかない。全ては妻が決めて決行したことなのだから。

それに今から三年前になるが、義理の妹も、ここで夫が亡くなったのを期に姉を追って栃木県に行ったと聞いたのである。姉妹で仲良く暮らしているとの事だ。

それから・・・しばらく経ったある日のこと。

風の噂からどうやら妻は栃木県で違う男と一緒になって幸せに暮らしているらしい。と聞いたのだった。それを聞いて私は一人慟哭した。自分の知らないところで、そうなっていたなんて。そこで初めて私は気づいたんだ。

やっぱり妻は私という人間と生活していく上で私の気づかないところで、非常なるストレスを貯めていたのだ。つまり私との生活が苦痛だったのだ。当時、私は、大病院で外科医として、家庭の事まで目を向ける余裕はなく遮二無二働いていた。きっとそれで私との生活が苦痛になったのだろう。こうして第二の人生を妻が始めているということは・・・何故、あの時、私は、あそこまでして大病院で働くことに誇りを持っていたのか?今、思えば自分でも馬鹿馬鹿しく思う。当時、私は何でもかんでも、きっちりと杓子定規にあてはめていた。昇進のチャンスを隙有らば虎視眈々と狙っている論理的かつルーティーンどおりに仕上げる患者に心を向けない冷酷なマシン・・・いや手のつけられない傲慢であり貪欲な野獣に過ぎなかった。ただただ出世街道をひたすら走っていたと言える。ところがだ。癌になったのを期に完全に私は敗北者となったのだ。それは私の中であの白い巨塔が一気に崩れた瞬間だった。出世の道も完全に失い、翼をもぎ取られた鳥のように、この先、何をしたらいいのか?その時、全くわからなくなり生きる希望をなくしたんだ。一体、自分は何をする為に医者になったのか?と・・・しかしある事がきっかけとなり気付かされたんだ。人から愛される医者となり真心を持って皆に接し一人でも多くの人を身体だけじゃなく精神的にも助ける。これが私には欠落していたんじゃないのか?と・・・きっとバチがあたったんだ。今のようにこの恵まれた自然の中で島の医者になっていればよかったのに・・・まあ無理はない。あの頃は、病院で泊まってばかりの毎日だった。妻に愛想つかされても仕方ないといえる。妻を上手くフォローさえ出来なかった自分。夫、失格である。妻に合わせる顔がない・・・

今でも絶えず遠く離れている妻と子供達の事は思う毎日。思わない日はないんだ。 

寒い日、暑い日ある度に(大丈夫か?健康でいるのか?)心配しない時は無かったといえる。当時を振り返ってみる。懐かしいな。あの頃は・・・彼らが生まれた時、私は飛び上がって喜んだよな。承2,950g。その一年後、和樹3,150g。窓越しに確認した我が子の姿。手足をピクピクさせながら元気よくそれぞれ産声をあげ泣いていた。私も病院に行き、二年連続で我が子を見ながら嬉しくて同じように泣きながら何時間も窓にへばり付き眺めていたっけ。看護師さんに注意されるまで何時間も何時間も・・・そして初めて息子を抱いた時のあの喜び。嬉しかったなあぁ〜。決して忘れる事などあるもんか。崩れそうで壊れそうな小さな体にそっと触れた瞬間、伝わってくるそのぬくもりと微弱ながらもしっかり生きようとする彼らの心臓の鼓動に私は自然に感涙していたよな。そして息子を、抱きしめ私はこう言ったんだ。(生まれてきてくれて、ありがとう。君は私の宝物だよ。)と・・・それにだ。そう、あれは確か今から二年前の話になる。これでも一度、息子たちを見に栃木県へ行った事がある。どうしても見に行きたくて戸籍から調べ、学校へ父兄になりすまし隠れて見に行ったんだ。それは運動会。承は徒競走で一番を取り、和樹は玉入れ競技で張りきっていたっけ。それを見て私は思わず目頭が熱くなり校舎の影に隠れて一人泣いたよな。あの時の記憶は鮮明に覚えていて、目を閉じるといつでもその情景が目に浮かぶ。その後、時間が無かったから、妻を確認するまでもなく、すぐ帰ったっけ。あの時は六時間かけて栃木県に行き、その日の内に愛知県に戻ってきた。息子たちの成長を目に出来た喜び。それだけで充分幸せだった。走馬灯のように駆け巡る思い出。あれから二年が過ぎた。今の自分・・・今の自分と言ったら静かに死のうとしている。一人静かに・・・何てことだ。せめて死ぬ前に・・・死ぬ前に、もう一度、迷惑にならないように息子達に会っておきたい。この限られた時間。承と和樹達の為に使ってやる事が出来たのなら・・・少しでいいから・・・今更ながら(君達に会いたくなったから会いにきた。)なんて虫がいい話だという事は充分わかっている。それに、自分が近づいていったってあの子達からしたら迷惑なだけだ。でも私は我が儘だとは思うが、どうしても会ってから死にたいんだ。考えてみれば承や和樹に対して私は父親らしい事は一度もしてあげられずに、別れることになってしまった。当時、承が二歳で和樹が一歳だったから仕方ない。出来れば子供達が困った時に近くに居て父親らしいアドバイスをしてやりたかった。でもそれが出来ずに今の自分は死を迎えようとしている。何もしてやれずに。今、自分が父親らしい事というのは何ができる?一緒にスポーツをしてやる事さえも私は彼らと一緒にしてやれなかった。遊びでもスポーツでも何でもいい。俗世間で父親が息子たちにしてあげられるようなことを最後に承と和樹とすることが出来たら思い残すことは無いのだが。それが出来さえしたのなら死んでもいい。キャッチボール?サッカー?ほんと何でもいいんだ。私の息子と、親子らしいことが出来さえすれば・・・たとえそれが自分の我が儘になるかも知れない。でもそれをすることで今までつかえていた自分の中にある蟠りがとれるのだ。向こうでは、金田という苗字を名乗っているらしい。金田・・・?中学校の同級生にそんな苗字の奴がいたな。奴は今、どうしているんだろう?ずっと前、同窓会に行った時、姿を見せなかった。消息不明になってるとのことらしいが・・・でもまだ奴は、いいではないか。消息不明なんだから。それならまだ何とかなる。どこかで生きてさえいれば・・・自分はそうではないのだ。もうすぐ死というものを受け入れたあげく、逝去という知らせが、みんなのもとに届くのだ。あえなくゲームセットで幕が閉じる。そうなる前に息子たちに会いたい。そしてキャッチボールなどしてみたい。そこまでして自分の息子たちに会いたいんだ。会ってから死にたい。息子たちと一緒になって自分は父として遊んだのだという軌跡を作れたらいい。ただただ今の自分にはそれだけでいいんだ。そんなちっぽけな望みを抱いている馬鹿がいると笑いたければ笑えばいい。何もそれ以上の望みはしたくないんだから。

でもこれだけは気をつけよう。自分が現れた事で息子たちの幸せな生活を邪魔せぬように。]

男は、妄想しながらも腹部、頸部と走査を続け、まんべんなく観察を試みた後、一通りのエコー検査による自己診断を終えたのだった。

日間賀島という所は、前にも書いたが蛸が有名らしい。そういえば、父ちゃんもそう言っていたっけ。またここ最近、ふぐが、よく取れるということで注目を集めているということだった。ここで取れたふぐを下関に持っていくこともあるらしい。

そう聞くと是非食べたいものである。僕たちの頭の中は、ふぐで一杯になっており期待で胸を躍らされた。

なぜなら僕たちは、今日、生まれて初めてふぐの刺身・てっさと、ふぐのちり鍋・てっちりを食えるかもしれないという期待を持っていたのである。

ところがだ。

どうやらふぐは、日間賀では十月から三月までの期間限定もので、夏にここでふぐを食すということは無理らしいということだった。えっ〜?そんなあ〜非常に残念である。

「そんなに気落ちしないでくれよ。もう少し遅かったらいいんだけどね。今は、時期はずれなんだ。ごめんよ。」

杉先生は、大変申し訳なさそうに言っている。

「いいよ。別に。謝んなくても。おじさんのせいでもないんだから。」

僕たちは、暗くなった日間賀の夜道をブラブラと三人で歩いていた。

途中、家と家との間にある狭い道を歩いた。

日間賀の狭い道は漁師の島特有の情緒を持っている。せせこましい作りになっているが、下町を模造した人情味あふれる家々が軒を連ねているという感じである。

そして僕たちは島の北側にある漁港に出ていた。

ほのかに香る潮風が、僕たち三人の間を静かに通り抜けていた。

無数の漁船が停泊していて静かに波に揺れている。

仕事で疲れたその船たちは、今日一日戦い終えたと言わんばかりに、ゆっくりとその英気を養っている。

まったりとした、この落ち着いた雰囲気。自然に僕たちも心が落ち着いてくる。

「わあ〜兄ちゃん。すげえ。すげえ。こっちきて。」

和樹が、堤防沿いに立ち海の水を真上から見ている。

「どうした?和樹。」

「海が光ってるよ。これ。」

「わあ〜〜〜っ」

僕たちは、共に叫んでいた。

見ると、水中で光る青白い光の帯が、小さなネオンの微光となってせわしなく泳いでいた。

それは月明かりで輝くような色ではなく化学反応によって変化したようなガスバーナーの青白い炎という感じだった。

小刻みに動きまわる光り具合からして明らかにそれは魚から放たれた光だと推測できるのだが、それが何なのか?わからなかった。

「それはねえ。夜光虫って奴だよ。」

「夜光虫?」

「そうか。君たちは海なし県育ちだからわからないか。そいつは円盤状をしたプランクトンでね。それが魚の表面に付着したからそんなふうに神秘的に見えるんだ。」

「へえ〜」

僕たちは初めてみるその光景にたとえようも無いほどの感動を味わっていた。

「プランクトンが大量発生した赤潮でもない限りナカナカこういうふうには見えないんだけどね。今日は、君達、運がいいよ。非常にラッキーだ。」

海のある所、特有の神秘。どことなくミステリアスで胸がワクワクするほどの興奮を僕たちは味わうことが出来たのであった。

僕たちは、さらに道をズンズン進んだ。右手には空き地があった。そこには、数にして百位はあると思われる数の蛸壺が積まれてあった。さすが、蛸の島である。そんな時である。

「先生、杉先生。」

背後から声がかかった。後ろを振り返る。板前の服をきた青年が立っていた。

この暗闇に、白い服だけが異様な明るさで浮かんでいた。

なんだか幽霊もしくは死神を見てるみたいで怖かった。

「おう、征司君か。」

「どうしたんです?」

「いや、遠路はるばるこの子たちが私に会いに来てくれたんでね。今から、どっか美味しいものでも食べさせてあげようと思って。本当はふぐが食べさせてやりたかったんだが。あいにく、ふぐは日間賀では、時期はずれだろ?残念ながら食べさせてあげれないんだよ。」

「なんだ、そんなことだったんですか。」

「そんなことって・・・」

「自分の所なら全然大丈夫です。」

「えっ?君のところでは、ふぐが食べれるのかい?」

「先生、僕と先生との仲じゃないですか。任せて下さいよ。そんなのおやすい御用でさぁ。」

「やったぁ〜」

僕たちは口々に叫んでその場で飛び跳ねていた。

やっぱり僕たちは、ついている。ラッキーだ。無理だと言われたふぐが食べれるなんて。イッシッシ。待ってろ。ふぐ野郎。今から俺様たちが滅茶苦茶食べてやるからな。

征司という青年は僕たちを自分の所へ誘導していた。その所は、ここから、さほど遠くない所にあった。

狭い道を通っていった奥にそれはひっそりと存在していた。

なんとそこはひなびた民家。僕たちは胸が高まった。なんとも情緒があって、期待感をさらに高めさせてくれるからだ。

看板のような表示するものは一切、外から見る限り存在していない。

「ここです。表看板はありませんが、立派な料理屋でございます。どうぞ中に入っておくんなさいまし。」

青年は家のドアを開け僕たちを中へ招き入れた。

普通の家の玄関と何ら変わりばえしなかった。

「こっちです。こっちこっち。」

尚も家の奥へと進み僕たちを誘導する。

外からみた家のイメージは狭い空間に違いないと推測されたが、実際に中に入り、見てみると殊のほか広いことに驚かされた。あまり調度品というものを置かないのが原因かもしれないが、すっきりとしていて余分な所に力を入れない所が、返って空間の使い方の上手さにつながり清潔感を印象づけていた。

直進すると左側に厨房スペースがあった。とても民家にはない本格的なシンクがドデンと中央とその周りに置かれていた。それを見た瞬間、料理に対するこだわりがあることを客である者たちに充分アピールしているのがわかる。

厨房に一人の板前らしき人が働いていた。

板前らしきと言ったのは、僕たちを誘導している青年とは違い、白い服ではなく黒い私服を着ていたのである。厨房の入り口には暖簾が掛けてあり顔までは確認出来なかった。

「こっちですよ。」

建物の突き当たりまでくると青年は右側にある襖を開け僕たちを中へ促した。

大きな黒い和式テーブルが和室の中央に備え付けられていた。

クッションと思えるほどの分厚くて落ち着いた絵柄の座布団がその黒テーブルの周りに敷いてあった。壁を見ると大木に止まる一羽の小鳥が繊細なタッチで書かれた掛け軸が吊るしてある。

「わあ〜すげえ〜」

まさに本格的である。

「ちょっくら、お待ち下さいまし。急遽、ふぐをこしらえますんで。」

そう言うと、青年は襖を閉めて行ってしまった。

「わあ〜たのしみだなあ〜。どんなの出てくるんだろうなあ〜」

僕と和樹は、そわそわして落ち着きないのが自分でもわかった。

しばらくすると前菜が運ばれてきた。

前菜から始まった料理は、次々とメニューを変えていった。全てふぐ一色で、まさにふぐづくしコースのコース料理になっていた。

「うま〜い。」

どれもこれも初めて食べる料理ばかりで驚きの連続であった。贅沢の極みである。いいのだろうか?警察に捕まるのではないだろうか?という錯覚さえ感じる。たかだか小学五年生、六年生の子供がこういうのを食べてしまって。今頃、学校のみんなは、さして変わり栄えもしない料理で食欲を満たしているんだろうな?と思うと優越感に浸ることが出来た。それが僕たちにとってなんとも有り難かった。

ちょっと待てよ。歩美はこの日間賀に来ても、ふぐは食べれなかったんだな。そう思うと胸が痛んだ。

「君達、この日間賀島には、昔話があるの知ってるかい?」

食事の途中で杉先生が、いきなり切り出した。

「昔話?ううん。知らない。」

僕たちは首を横に振る。

「それは、かしき長者といってね。聞きたいかい?」

「聞きたい。聞きたい。」

「昔、昔、この日間賀島のあるところに信心深いかしきと言う漁船に乗って漁師の料理を作る人が住んでいたんだ。物を粗末にしないこのかしきは、いつも欠かさず食事の後、[オイオ、おあがり。]このオイオというのは魚の事なんだが、[オイオ、おあがり。おあがり、オイオ。]と言ってその食事の残り物を海にばら撒き、魚にあげていたんだ。彼がそう考えたのは、こうやって漁に出られるのも海と魚のおかげであると感謝していたからなんだ。そんな漁に出たある夜の事。いつものように魚に残り物をやり、船底に入ってかしきは寝ようとした。ところが、その時、外が異様に静かなのに気が付いた。[どうしたんだろう?こんなに静かなんて。まるで海の水が無いみたいだ?]かしきはそう思うと周りのすでに深い眠りに入っている漁師達を起こさず一人で外に出てみる事にした。そしたら海がいつの間にか砂浜に変わっていたんだ。[やっぱり本当に海が消えている。おかしいな。どうしたというんだ。海の水は、いったいどこに消えてしまったんだろう?]不思議に思ったが、それを見たかしきはその砂があまりに綺麗だったため、船から降りその砂を桶に入れて取っておく事にしたんだ。そして床についた。翌朝、起きると、夕べ見た外の砂浜は消えて、ちゃんと海になっている。そこで夕べあった不思議な事を、かしきは漁師たちに話してみる事にしたんだ。ところが皆、そんな馬鹿な事、あるはずが無い。と相手になってくれやしない。[全く不思議な事もあるもんだ。ところで桶に夕べ入れておいた砂はどうなったのだろう?]ふとそう思い、かしきは船底に行き桶を覗いてみたんだな。そしたら、な、なんと・・・」

「どうなったの?」

僕たちは、いっせいに声を合わせ杉先生に向けて叫んでいた。

「みるとなんとびっくり。桶の中に入っていたはずの砂は金の山になっていたんだ。」

「へえ〜すげえ〜。」

「今まで良いことをした行ないに対するごほうびだと島の人たちは言って、みんなでそのかしきの人をかしき長者と呼んでいつまでも幸せに暮らしたそうな。チャン。チャン。」

「おおぉ〜」

僕たちは、その昔話のハッピーエンドに堪らず拍手を送っていた。

へえ〜。そんな昔話がここにはあるんだ。なんとものどかで、この土地特有の人のいい土地柄を表しているようで僕はそれを聞いてこの島が好きになったのだった。

「おじさん、この土地が好きなんだね。」

「ああ、好きさ。ここの人、ここの土地。みんな大好きさ。」

「おじさん?今の話しとは、ちょっと違うけど、聞いていい?」

僕たちには、どうしても聞いておかなければいけないことがあったのだ。

「何だい?お手柔らかに頼むよ。」

何だかぎごちなさそうに杉先生は返事した。

「どうして栃木県まで来たの?」

杉先生はとうとう来たか。といったような面持ちである。

「それはだね。神の声が聞こえたからさ。」

「神の声?」

「そう。神の声。おじさんは、よくあるんだよ。こういうこと。汝、栃木県に行くがいい〜。さすれば、良き事に巡り合おうぞ〜。」

杉先生は、まるでどこかの神主が祝詞でも言うみたいに僕たちの前で身振り手振りよろしくリズミカルに言っていた。

「それで、良い事あった?」

「あったじゃないか。君達と会うという良いことがさ。」

「じゃあ、なんで僕たちとキャッチボールすることを望んだの?」

「おじさんはね。キャッチボールマニアなんだ。キャッチボールフェチとでもいうのかな?」

「キャッチボールマニア?キャッチボールフェチ?」

「そう。三度のめしよりキャッチボールが好きでね。どこかでキャッチボールをしていたと聞くといてもたってもいられなくなってね。ついつい押しかけていって仲間にいれてもらおう。ってしちゃうわけ。そのターゲットが君達だったわけだよ。悪かったねえ〜災難だったねえ〜白羽の矢が刺さってしまって。変なものが憑依しちゃったって訳だ。」

「嘘でしょ。それは。」

「嘘じゃないさ。ほんとだよ。ほんとのほんと。」

本当にそんな事で僕たちが信じるとでも思っているのだろうか?全然、白状しそうにない。

「ところで兄ちゃん。」

和樹が何かを急に思い出したらしく、いきなり僕に聞いてきたのだった。

「ん?」

「おじさんには関係無い事だけど今日、不思議に思ったことがあるんだよね。」

「何だ?」

「歩美姉ちゃんの母親が言っていた事って本当かな?」

「ああ。それか。何だよ。いきなり。本当に急だな。自分は水商売やるのに騙されていたってことか?」

「そう。どう思う?あれは嘘だったと思う?」

「いや。違うな。あれは、きっと本当のことなのだろう。本人がちゃんと自分は騙されていたと言っていたんだから。」

「それと山田おじいさんの事件は職場で目撃者から聞いたと言ってたよね?その目撃者って一体誰かな?」

「え〜っと・・・でも目撃者って言ったら俺と和樹と父ちゃんの三人だぞ。」

「じゃあ、父ちゃんが客として歩美姉ちゃんの母親に会いに行って教えたって事?」

「酒の飲めない父ちゃんが会いに行く訳ないだろ。馬鹿じゃねえの。」

「兄ちゃん、何か僕ねぇ〜歩美姉ちゃんの母親を騙していた人物と事件の目撃者とは同一人物のような気がするんだよねぇ〜例えば、愛人とか。」

僕は歩美がリストカットした日、歩美の家から飛び出した時に、外から男の声で[じゃあな。望、明日もしっかり働けよ。]と聞いたことを思い出した。

確かにそうかもしれない。歩美の母親には僕の知らない男が存在しているかもしれない。でも他に考えられる目撃者って一体・・・

僕は杉先生と目が合った。杉先生は少し不穏な表情で僕を睨んでいた。それを見て僕の心に急に不安な気持ちが広がった。和樹は更に考え込みながら言う。

「もう一つ気がかりな事があるんだよ。兄ちゃん。何かおかしいと思わない?あの敦子姉ちゃんがだよ。あの敦子姉ちゃんが、おじいさんにカメラに撮って貰うようにお願いしたりするかな?あの二人、そんな接点あったっけ?これが、僕たちとか歩美姉ちゃんならまだわかるよ。いつもおじいさんには、兄ちゃんの公園からのロングシュートの件でお世話になっているから。でも全然、敦子姉ちゃんと、おじいさんには接点がないじゃないか。」

「う・・・ん。そうだな。ということはだよ。和樹。」

僕は頭をフル回転していた。

気軽に敦子姉ちゃんに写真を撮ってやると警戒もされずに言える人物。誰だろう?

「僕さあ、何かこのままじゃ終わらない気がするんだよね。」

それは僕も納得できる。

「そういえば敦子姉ちゃんは電車事故で死んだんだよね?」

そう言うと和樹は頬杖をつき宙を睨み何かを考えるようにしていた。やがて何かを思い出したように徐々に目の焦点が合うと僕の顔をハッキリ見た。

「兄ちゃん、それって本当に事故だろうか?」

山田老人、カメラ・・・そして電車事故。僕は杉先生と目が合った。思わず体が固まるのを感じた。

「第一さあ。植村さんが撃たれたことでも怪しいと思わない?偶然に無差別に狙われたというのはどう考えてもおかしい気がするんだよね。」

「それは俺も思うけどよお〜。でも無差別じゃないと考えるとこれまたおかしいと思わないか?恨みを持たれていたのか?植村さんは?」

「さあ?わからない。」

和樹が呟く。杉先生はジッと僕たちの話に耳を傾けている。

「それにこれは単独犯ではないだろうね。」

「ん?どうしてそんなこと言えるんだ?和樹?」

「だって僕たちのトラックは、あの高速で猛スピード出ていたんだよ。追い抜いて先回りするなんて不可能に近い。」

「でも、和樹。トラックがパーキングエリアで休憩している間に追い抜いたりとか・・・」

僕はふとあの忙しげなパーキングエリアでの五分休憩を思い出し、考えを打ち消した。そうだ。和樹の言うとおり一人で先回りして高架から射殺する事なんてとても無理だ。犯人はもう一人いるんだ。また再度、目の前にいる杉先生と視線が、ぶつかり合う。軽く背筋の冷えを感じる。ひょっとして・・・

「兄ちゃん?」

「ん?」

「本当に狙われていたのは、僕たちの方なんじゃないの?」

「ちょっと待て。和樹。もしそうだとしたら、その人物は俺たちがヒッチハイクでこっちに向かっていること、よく知り得たよな。どうやって知ったんだ?だっておかしくないか?俺たち誰にも話してないんだぞ。そうだろ?日間賀島に行くなんて。」

僕たちが、この日間賀島に向かっていると簡単に推測できた人物。少しずつ現れる真実。

それに歩美たちは以前、この日間賀島の住人だった。少なくともこの島に関係する人物が関与しているに違いない。またもや杉先生と視線がぶつかり合う。

「そうだよね。僕たちが日間賀島に行くでなしに、日間賀島のことを話題にしていたこと自体、知っている人物は少ないからね。えっと。誰がいたっけ?」

「そりゃ、お前あれだよ。まずは歩美だろ?あいつは電話で俺と話したからな。あとは・・・」

「兄ちゃん、あとはって言ったら・・・ん?」

僕たちは、目を合わせた。互いに共通した人物を、頭に思い描いているようだ。

「でもさ。和樹。仮に俺たちが今、思い描いている人物が狙ったんだとしてその人の目的は何なんだ?」

「目的ねぇ〜?」

和樹は腕を組んで考える。しばらく考えていたが、突然ひらめいたように僕に顔を向ける。

「何か僕たちが日間賀島に到着したら聞かれたくないヤバイ情報があったんじゃないの?」

「そんなのあったか?何があった?」

「う〜ん。そうだねえ〜。」

その時だった。

「あっ。」

和樹と僕はほぼ同じタイミングで声を発していた。同時に同じ事が思いついたのだ。

「そうだよ。和樹。事件。」

「仲村っていう人の家に行った時にあのお婆さんが言っていた事件だね。兄ちゃん。十年前、六十歳になる身元不明の男の死体がこの島に漂着したって話でしょ。あと事故もあったよ。三年前、歩美姉ちゃんの父親が、何もない穏やかな海で船ごと爆破炎上したってこと。多分、これだよ。これらの内のどれかないしは両方かもしれない。これが僕たちに聞いて貰っては困ることだったんだよ。この事件、奥底では共通性があるのかもしれない。」

その時である。それを聞いていた杉先生がゆっくりと話し始めたのである。

「それを聞いたんだね。事件の事を。その事件はね。この島で不可解とされる二大事件とされてこの島民の間からも今でも語り継がれているんだよ。そして・・・」

杉先生が、さらに話そうとした時だった。

スゥーー

静かに襖が開いた。

「先生、こちらが本日のメインでありますふぐの刺身、てっさになりやす。」

みると皿一面に薄く切られたふぐの身が花びらのように円を描いて一枚一枚綺麗に並べられていた。とても薄く切られていたため、皿の模様が、くっきりと透けて見えていた。

「わお〜」

僕たちは唸っていた。

「せっかく征司君が腕に選りをかけて用意してくれたんだからな。食わないなんて言うとバチがあたる。お言葉に甘えて頂こうかな。君達もよく味わって食べるんだよ。」

「は〜い。」

僕たちは、そう言うと夢中になってふぐを食べた。初めて食べるふぐの味、それは卒倒しそうなほど美味しかった。まさに、皿を彩る宝石箱そのものだった。

「どうです?お味のほうは?夏のふぐなんて日間賀じゃあなかなか食えない代物ですからね。」

「おいしいで〜す。」

僕たちは口々にさけんでいた。

「さようですか。そりゃ、ありがとさんでございます。」

青年はそう言うと、しばらくの間、その場に座って僕たちの食べるのを、じっと伺っていた。

その時である。僕の隣りで食べていた和樹の元気が急に無くなったのは。

「和樹、どうした?」

あまりの出来事に僕はびっくりした。みると手を口にあててブルブルと震えている。

「いったいどうしたんだ?かず・・・き。」

僕も急に手足の痺れを感じ、体がブルブルと震え出していた。

どうしたことだろう。手と足が痺れて、全く力が入らない。

「どうした?二人とも。大丈夫・・・かい。」

みると杉先生もブルブルと震えているのがわかる。

まるで体の小さい順番にそれは振るえが始まっていた。

「まさか、これは・・・」

杉先生はそう言うと、震える指を口に突っ込み今食べたものを吐こうとした。

「おっと、待った。」

杉先生の震える手を静止したのは紛れもなく近くで見ていた征司そのものの手だった。

「何をするんだ。征司君。」

「先生にこのまま回復されては困るんでね。」

征司は、そう言うとニヤリと笑った。奥に金歯が光っている。

「あにきぃ〜あにきぃ〜。」

征司は、急に大きな声になり、厨房に向けて叫んだ。

出てきた人物。それは厨房で黒い服を着ていた人物であった。それを見た時、僕たちは驚いて倒れそうだった。

その人物、何を隠そう僕たちの父親だったのである!

「君は・・・金田。」

杉先生は久しぶりに見る中学校の同級生に懐かしさを覚えると同時に何故、ここにいるんだろう?という事に驚いているようだった。

「父ちゃん、どうしてここに。母ちゃんは・・・?」

「ん?今、何て言った?承君。父ちゃんって言ったかい?」

初めて知り得た情報に杉先生は更に驚きの色を隠せないという感じだった。

「ということは君、君だったのか?栃木県で美奈子と住んでいる男性というのは。」

杉先生は金田に向き直って聞いていた。今、知り得た事実は杉先生を驚きと悲しみの中へと追いやっていた。まるでそれは縄となり杉先生の首をしめあげていたのである。

「兄貴、これでいいっすか?」

征司という青年は、金田に向かい言った。

「ああ、征司。ごくろうさん。上出来だ。ただなあ〜駄目じゃないか。よく見なくちゃ。このガキたちは、くたばってないじゃないか。まだ生きていてピンピンしてるじゃないか?」

金田は僕たちの問い、杉先生の問いを無視して征司という青年にそう言った。化けの皮が剥がれた瞬間である。

「そうでしたね。兄貴。面目ねえこってす。すんません。」

征司はその場で舌を出し、ペコリと頭を下げている。

「どーだい?杉先生様よお〜神経毒、テトロドトキシンの威力は?なかなかのもんだろ?しかしなあ〜無様な姿だよなあ〜医者ともあろうお偉いお方が。今の姿、全く見るに耐えないぞ。笑わせてくれるぜ。」

「父ちゃん、どうしちまったんだ。なぜこんなことするんだ。」

「うるさい。だまれ。ガキッ。うっとうしいんだよ。てめえらは。あ〜?なぜ、死ななかったんだ。高速道路で死んでいればここまで俺が手こずる事、無かったのに。全く悪運の強い奴らだぜ。お前らは。」

「どうしたいんだ?私たちを、この神経毒で殺したいのか?」

「おっと、それはねえから安心しな。そんなことをしてあんたらをここで殺してしまえば、

殺人容疑が、俺と征司にかかっちまうからな。いくらなんでも、そんなドジは踏まねえよ。安心しな。致死量の一g、二gは、いってねえから。致死量はずし、症状がステージ一止まりになるように調節させてもらったよ。ただなあ〜悪い事に一つだけ失敗した事があったようだ。その減らず口を麻痺させられなかった事は失敗に終わったようだな。どうやら運動失調止まりのようだ。まあそれもいいわな。どうせ死ぬんだから。お前らは。死ぬ前に、色々思いのたけを述べて死んでいきたいだろ?俺の親切心と思って感謝するんだな。」

「どうしてだ。どうしてこんなことをするんだ?」

杉先生はそう言うと金田と征司にわからないように震える手を我慢しながらテーブルの下に持ってきて近くにあった自分の携帯電話から何やら番号を押しズボンのポケットに素早く仕舞い込んだ。この先、麻痺が進行してもっと症状が酷くなることを見越しての杉先生のとった判断だったのかもしれない。

「おっと、その前にだな。お前達には、ちょっと場所を移動して貰うからな。違う場所で死んで貰う。征司、ちょっと手伝え。」

「はい、兄貴。」

二人の男は、僕たち三人の手足をロープで縛り上げ、家の裏口から一人づつ抱えながら外へ運び出した。駐車場には一台のシルバーの車が停車してあった。これはいつも父ちゃんが運転している十年来のおんぼろマイカーだった。

さっきまで動いていた僕たちの手足はすっかり麻痺を強め、更にロープで縛り上げられた事により僕達は全く手足の自由を奪われる形となってしまったのである。

運転席に征司。助手席に杉先生、後部座席の一番右の席に金田が乗り込んだ。金田は自分の存在を隠すように帽子を深々と被りサングラスをしている。その金田の左側を僕が座り、一番左側に和樹が座る形になった。杉先生と僕たち三人は、さらに上から黒いシーツを覆い被された。

「今から、私たちをどうしようというんだ?」

杉先生が堪らず尋ねていた。

「黙って俺たちに従えばいいんだよ。そうすれば、少しは生きている時間が長くなるっていうもんだ。いいぞ。征司。準備は出来た。さあ、出発しよう。」

ブルルンというエンジンの始動音。車は静かに動き出した。

車は少し行くと左折右折を繰り返したが、それでもしっかりと地面を進むといった具合にゆっくりと走り続けた。五分くらい進んだであろうか、急に車は止まった。

「騒ぐんじゃねえぞ。お前ら。騒ぐと殺すからな。」

後部座席に座っていた金田がいきなり急き立てるように静かに言った。

運転席の窓が機械仕掛けにゆっくりと下りる音が僕たちの耳に届いた。

「あら。征司君。久しぶり。お姉さん、元気?」

外から聞こえてくるその声はどうやら女性の声らしい。聞き覚えのある声?誰だろう?

「ああ。望さんじゃねえか?久しぶりだなぁ。オネエとは同級生だったんだよな?元気にしてるぜ。日間賀に帰ってきていたのか?」

「うん・・・でも、もう帰るんだけどね。ここでは色々あったから・・・」

落胆の色が隠せないその声の主。そう、その声は紛れも無く歩美の母親そのものの声だった。

「征司君。今から何処いくの?」

「ああ。ちょっとな。今からドライブだ。あんたは?」

「うん。帰る前に、友達の車を借りて色々この島を見ておこうと思って。」

自分の娘が逮捕された現実に、さぞや胸を痛めているに違いない。歩美の母親の言葉の端々からそれは伺えるものとなっていた。

「ところで、杉先生と息子さん達、見なかった?島の人たちが祝いの席を準備しているらしいのよ。さっきから捜しているんだけど見あたらなくて。」

「さあ。俺は知らねえな。」

征司は即答で応えていた。布が被せられているため、僕たちは見えないがどうやら歩美の母親は島を車に乗って観光しながら僕たちを探しているようだった。さぞや金田は緊張しているに違いない。ここで自分の存在が、ばれるようであれば全てが台無しになるからだ。

僕たち三人はこんな状況にありながら、とても歩美の母親に助けを求めることなど出来はしなかった。なぜなら杉先生は征司によってピストルがわき腹に突きつけられていて、僕は、わき腹に金田のナイフが突きつけられて脅されていたのである。和樹に関して言えば、僕の後ろから僕と和樹の間に金田の左腕が廻り込む形でナイフが滑り込み、わき腹に突きつけられていた。歩美の母親から判らないように。

「何?その布?」

歩美の母親は、僕たちが被せられている布に不信感を持ったようである。

「これか?何にもないさ。」

「あれ?後ろに乗っているのは、どちらさん?」

後部座席に座っている金田を見て尋ねているらしかった。

僕たちを脅している金田の腕が一瞬ではあるが小刻みに動いた気がした。

「ああ、この人は俺の先輩さ。」

征司は、自然体を装いながら応えた。

「おいっ!」

金田は業を煮やし征司に向け、足でポンッと運転席の後部を蹴りながら言葉をかけた。緊張の境地に立たされているのが伝わってくる。

「じゃあな。もういいだろ。俺は今急いでいるんだ。」

急かされた征司はそう言うとアクセルを踏み前進した。

「ちょっと待ってよ・・・今の声って・・・」

背後に徐々に小さくなっていく歩美の母親の声を聞いた。

「承君、和樹君。この先、こいつらが何を企んでいるのかさっぱり理解できないから、言っておくよ。実をいうと今、言っていたように私が君達の本当の父親なんだ。黙っていて、ごめん。」

黒シーツを被ったまま、杉先生が突然、後部座席に座っている僕たちへ向け言った。

「やっぱりそうだった・・・んだ。」

以前は、そんなはずがないと思っていた疑惑の念も今では、多分、この人が本当の父親に違いないと思うのが自然だった。

「内緒にしていたのは、私が勝手に判断したことなんだ。私が君達の生活に介入したことにより君達の生活をおびやかしたくなかったんだ。本当にごめん。」

「いいよ。気にしなくて。僕たちに会いに来てくれたこと感謝してる。」

和樹が、すかさず受け答えしていた。

「お〜お。りっぱな親子愛だな。俺には、そんなくだらねえ辛気臭い親子愛は、真っ平ごめんだ。ヘドが出るってもんだぜ。」

やりとりを聞いていた金田は、そう吐き捨てるように言った。

「兄貴、着きました。ここです。」

征司は、そう言うと車を止めた。僕たちは、ようやく被されていた黒シーツが外された。

「ここは西港・・・」

杉先生から言葉が漏れた。

どうやらここは、港らしい。前方には、真っ暗で静かな海が、ひっそりとたたずんでいる。

シュピン!シャッ!シュポッ!

金田はジッポを取り出し、タバコに火を点けた。

ウィーーーーン

後部座席の窓が、ゆっくりと開き、一口大きく吸った所で金田は車外に向け息を吐いた。

「ああ、そうだ。ここは日間賀島の西港だ。言い換えればお前らの墓場だな。」

金田が落ち着き払って言った。緊張が解けた後の安らぎのいっぷくだった。

車は停車していたが、進行方向は明らかに海に向かって配置させられている。

「俺たちを、どうするのさ?殺すのか?高速道路でトラックの運ちゃんを殺したみたいに。あんただろ?殺したのは?」

僕は、もうこの人間には父ちゃんなんて言うことなどとても言う気にはなれなかった。

「なんだ?兄貴に向かってその口の利き方は?」

「それに歩美姉ちゃんの母親を、そそのかして水商売で働かせたり、敦子姉ちゃんに羞恥な写真を撮って脅迫しようとしたりしたのは、あんただろ?それとも実は、あんただったのかい?敦子姉ちゃんを電車事故ではなく無理矢理、突き飛ばして電車でひき殺させたのは?」

搾り出すような声で和樹は叫び金田を睨んだ。和樹にとって全ての謎が解明したかのようであった。

「うるせえ。ガキ。」

金田はそう言うと吸っていたタバコを後部座席の窓枠に軽くポンポンと叩き灰を落とした。

「何で死ななかった?高速道路で征司に狙わせたのに。早く死んでいれば良かったものを。お前ら見てると虫唾が走るぜ。しかし、よく分かったもんだな。そうさ。何でも関与している張本人は俺さ。どうせ今からお前達は死ぬんでな。全てのことを言ってやるよ。お前らはだな、確かにこいつの言ったように俺の子供じゃあねえ。助手席に座っているこいつが本当の父親だ。昔、俺がお前らの母親を騙し、こいつからお前達と母親を奪ったのさ。母親を罠にかけさせたというべきかな。手口はくだらねえ乞食の浮浪者を使ってレイプさせ殺すのを仕掛けさせたのさ。杉山。女というものは簡単なもんだな。俺に罠にはめられたことも知らないで、もうあの人に逢わす顔がない。なんて事言いやがって、俺にホイホイついてきたよ。俺も俺でな。そんなしおらしい事言われるとゲージがついつい上がっちまってな。二人で駆け落ちしたって訳さ。当時、身元不明でも働かせてくれるところが栃木にあった。それでわざわざ栃木に姿をくらまして住み着いちまったという訳さ。ふぅ〜」

そう言うとまたタバコを咥え、大きく息を吐いた。そしてゆっくりと喋りだした。

「まあ、それで終われば良かったんだがな。欲というものは欲しいと思うと、とことんまで欲しくなるものだ。次は、妹が欲しくなった。よし、いっその事、この姉妹を俺の物にしてやろうと考えた。

その次に手を出したのは美奈子の妹の望を手に入れること。

どうしたかって思うだろ?そりゃ、まず最初にやることっていったら男を消すしかないだろう。俺が、わざわざこの日間賀に来てやって望の旦那を海に誘ってやったのよ。そして殺したのさ。船内に灯油をまいて船ごと燃やしてやった。よく燃えたぜ。へっへっへ」

金田は吸い終わると火を消さずそのままタバコを車外へ弾き飛ばした。随分と落ち着いたものである。まるで殺人などこの男にはどうってことないという態度が伺える。そして姿勢を整えるとまたしゃべりだす。次は、論理的に話そうとしている口調に変わっていた。

「女を手に入れるには男の存在というものは邪魔だからな。つまり女というものは翼をもぎ取られたらチョロいもんだってことよ。栃木に住ませてやり相談に乗っていたら俺の女になったという訳さ。挙句の果てに水商売させて金をつくらせるように仕向けたのもこの俺ってな訳だ。ピンはねしてもっと働くようこき使ったら、女ってもんは良く働くもんだぜ。なあ?おい。どうだ?なかなか俺も、やるもんだろ?」

「最低な奴・・・」

和樹が一言そう呟く。

「さらに俺の欲望というものは自分でも手がつけられなくなっていた。姉妹が手に入ったら、次はその娘が俺は欲しくなっていた。その頃、ちょうど敦子は望から小型カメラをプレゼントされて喜んでいたんでな。俺は、それを見て今度、写真を撮ってやると敦子に持ちかけてみたんだ。そしたら何の疑いもなく応じたという訳さ。俺の誤算だったのは、あいつが電車に飛び込み自殺しやがったことだな。本当は敦子を脅そうと思っていたんだがな。失敗だったぜ。どうやらそうしたことで余分に邪魔な奴が浮上してきたという訳さ。」

「山田老人。」

「ああ。俺は敦子が投げたカメラを取りに何度も、あの老いぼれの家に侵入したんだがな。結局、見つからなかった。証拠を握っているし、殺すしかないと思っていたんだ。でも下手に殺すと証拠のカメラが出てきた時にカメラに付着している俺の指紋から俺に疑いが掛かってしまう。それはよくないと思っていたのさ。そしたらどうだい?そんな時に山田のじじいが俺の目の前で死にやがったじゃねえか?俺はその時、思ったね。多分、あのカメラを手にした奴が犯人だと・・・望か、あるいは歩美のどちらかではないかと。まあ、犯人は歩美って事くらいじゃないのか?全くこっちの手間が省けたというもんだ。」

「何で歩美姉ちゃんが犯人って判るのさ?じゃあ、何?歩美姉ちゃんは山田老人が、敦子姉ちゃんの写真を撮ったものと勘違いして殺したってこと?」

和樹のおしゃべりが・・・

「ん?そうなのか?やっぱり、歩美が山田のじじいを殺していたのか。歩美には恩にきるぜ。じじいが死んだあの日、俺が刑事に事情聴取受けただろ。後で、その事を望に話したら事件の事は全く知らない感じだったからな。いやぁ〜でもあの時、俺の前に刑事が立った時には、俺は心底びびったもんぜ。」

「やっぱり歩美の母親の言っていた目撃者は、あんただったんだな。山田老人は、あんたのようなクズみたいな奴の罪を被って歩美に殺されたんだ。あんたが殺したようなもんだ。この人殺し。」

僕は、思い切り罵声を浴びせるつもりで叫んでいた。

「全く馬鹿だな。あのくそじじい。素直に警察にカメラを渡していたらこんな事には巻き込まれずに済んだのに。多分、お前らが、いつもサッカーボールを庭に放り込むから、きっとカメラも、お前らが投げ込んだと勘違いしたんだ。困ったもんだ。あのボケなすじじい。全くボケに付ける薬は、ねえとはよく言ったもんだぜ。ん?ってことは、そうか。じゃあ、ムショに行くってことだな。歩美は・・・まあいいさ。そこまで従順なら今後、俺の奴隷になるにはもってこいの器ってことだな。ムショから出てきたら俺の理想の奴隷にしてやる計画が出来たってもんだ。楽しみだぜ。へっへっへ。」

「そんな事はさせない。絶対に。歩美は、お前なんかに絶対渡さない。」

「お?なんだ?承。お前、歩美の事が好きになったのか?可愛いからな。あいつ。でも悪いけどよお〜お前は、もう二度と歩美には会えなくなる。だってお前はもうすぐ死ななくちゃいけない運命にあるからな。そのかわりこのシャバでは俺がたっぷり歩美を仕込んで可愛がってやるから安心しろ。敦子も良かったが歩美は、将来もっといい女になりそうだからな。へっへっへ。」

「そんなことして何になるんだ?」

「俺は自分の王国ハーレムを作りたいのさ。誰にも邪魔されない自分だけのな。男なんて、俺の周りからいなくなってしまえばいい。」

「お前には愛というものが無いのか?今まで確保してきた家庭愛というものは大切じゃあないのか?」

杉先生は何故だと言わんばかりの形相で語気を荒げた。

「俺の周りの人間達は俺が踏み台にする引き立て役でさえあればいいんだ。ロシアでこういう事件があった。地下六mの所に地下室を作り二年半もの間、女性七人を拉致監禁して毎日、女性たちに過酷労働させ、うち四人を自分に従わなかったという理由で殺害したという事件さ。これでいいのさ。これが俺の理想郷なのさ。杉山。俺はお前が昔から羨ましかった。俺たちが昔、本島の同じ中学校で学生だった頃の事だよ。お前は何でもよく出来やがった。お前が神童と呼ばれたせいで同級生だった俺はどんなに周りから比べられたことか。どんな嫌な目にあったことか。クラスで俺は馬鹿だという理由でイジメを受けたし、親からは杉山君のようにしっかりやれ。と言われ続け、それが出来ないとよく親から見放されたものさ。お前には想像つかねえだろう?この底辺で生きている人間の苦しみがよ〜。あ〜?神童さんよお〜?」

「お前は、ある時、私に熱く語ってくれたじゃないか?俺はビッグになってやると。あれは嘘だったのか?」

「嘘じゃないさ。本当のことだ。そりゃ俺だって一時期は諦めず夢というものを見たさ。ビッグになってやろうとな。でも無理なんだよ。所詮この世は金あるいは学歴なんだ。何か事業を始めるにしても金が要る。金が無いと銀行の阿呆うどもは、どこの馬の骨かわからねえ奴に金を貸したがらねえ。ましてや、担保といったものが、この俺にある訳がねえ。学歴があれば別だが、そんな期待出来るほどの学歴なんてどう逆立ちしたって俺に取れるわけがねえ。俺の夢は、その時点でことごとく水の泡となって消えちまったのさ。ある時、思ったんだよ。それならこれからは俺らしく卑怯な手を使って生きてやろうと。そんな時、お前の噂が風の便りで聞こえてきた。杉山は医者になり、結婚して何不自由なく暮らしていると。俺はこんなに苦労しているのに・・・昔からエリート路線を進んで何一つ苦労というものを感じていない奴がいる。俺は、そんなお前が憎かった。そうだ。こいつから全てを奪い取って駄目にしてやろう。こいつにも今、俺が味わっている苦労を罰として与えてやろう・・・と思ったのさ。」

「金田。お前はベクトルの方向が間違っている。中学校のとき、お前は[少しでも早く社会に出て社会勉強するんだ。]といって新聞配達していたよな。それにバンドも組んでいたじゃないか。あの時のお前は違っていた。何にでも挑戦していった。あの時のお前は本当に輝いていたじゃないか。私は影でそんな何にでも挑戦していくお前が羨ましかった。私には到底出来そうにないお前の行動が私には眩しかったんだ。あの時の野心はどこへいってしまったんだ?」

「うるせえ。そんな無茶をする俺を、どうせお前は影で笑っていたんだろ?そもそも俺はバイトもバンドも、お前みたいな成績が残せないからしただけの事。言い替えればお前の前でいつも俺は虚勢を張って見せかけていたんだ。本当の所、俺はお前の傍らでいつも、ひね媚びた殻の中に閉じ籠っていたに過ぎない。それなのに・・・そんな散々だった俺に格好良く昔の事を美化して話てんじゃねえ。俺は、そんなお前みたいに偽善者ぶってる所が一番嫌いなんだ。何が野心だ。笑わせんじゃねえ。こんな不景気な時代に頑張ってる奴こそおかしい。どうかしてる。言っとくがな。そんな野心、俺には何のくその役にも立たなかったよ。当時、日本はバブル崩壊が進んでいた。それに伴って銀行のへたれ共は財布の紐を固く締めやがった。そんな時にベンチャービジネスなんて出来る訳がねえじゃねえか。まさに世間からは俺なんて馬鹿扱いさ。その時からだ。完全に俺のベクトルが狂い始めたのは・・・ハーレムこそ自分の目標と。俺は完全に矛先を変えることにしたんだ。仕事よりも欲望で生きてやろうと。恨むんだったら俺を恨むより、こういう社会にした世の中を恨め。今だってそうだろ?アメリカのサブプライムローンの破綻とかで、その余波が日本に来て益々貸し渋るようになったじゃねえか。所詮、いつの時代も馬鹿な野心を持ってる奴が苦労する世の中だってことよ。まずは俺が目をつけたのは、俺がコンプレックスを持つきっかけとなったお前から大切な物を奪う事。それから始めることにしたんだ。」

「なぜ、そんな事するんだよ。悪魔。一人の人間から幸せな生活を奪うこと無いじゃないか?」

和樹は、抑えていた感情が噴出し、それと共に語気が激しさを増幅させ叫んでいた。

「何だと?こらっ。ガキのくせに、さっきからコチョコチョと生意気な口ききやがって。今の時代は何でも有りなんだよ。オレオレ詐欺。振り込め詐欺。弱いものから、容赦なく金を、むしり取る。その人の事など、どうでもいい。知ったこっちゃない。というふうにな。しっかりしてなくちゃ、自分が次は、やられちまう世の中なんだよ。わかるか?この時代は、オチオチしてると生き馬の目を抜かれちまうんだよ。若くして成功を掴んだ奴に世間はそんな甘くない事を思い知らせてやりたかったのさ。俺の場合、対象はエリートな奴から何もかも奪うことで人生は再スタート出来る気がしたのさ。俺はな、お前のそうやって困ってる姿が見てやりたかったのよ。いつもいつも苦労というものは俺に重くのしかかってきやがった。何で俺ばっかりが?世の中は不公平なことばかりだ。そんな中で、こいつにその苦労を被せることが出来たらどんなにか面白いだろうと考えたのさ。どうだ?誘拐よりもさらに手が込んでいるだろ?そいつの人生を根こそぎ丸ごと奪っちまうんだからな。はっはっはっ。」

金田はそう不気味に笑うと満足したように杉先生を見ていた。

「甘えるんじゃない。お前が思うように私の何処が幸せなもんか。仮にお前から生活を奪われなくても私は全然、幸せじゃあなかった。」

「馬鹿なこと言ってんじゃねえ。充分、幸せさ。本物のガキ達を前にしてそんな事言っちまったらガキたちが可哀想だぜ。え〜?神童さんよお〜?」

金田のふざけた言い方に杉先生は、あくまでも冷静だった。

「私の運命は、どっちにしろ決まっていた。実を言うと、もう私は長くないんだ・・・私の体は癌に蝕まれている。命の長いお前の方がよっぽど幸せに決まっているじゃないか?実は、この子たちに急に会おうと思ったのも死ぬ前に自分の息子たちの顔を見ておきたいと思ったからだ。」

「え?そうだったの?」

僕は、金田に対する杉先生の言葉を聞いて思わず声が漏れ出ていた。

「一人孤独に死んでいく私を、それでもお前は幸せというのか?いいか。金田。こんな事で人を殺めたり自分の価値というものを台無しにするのはよせ。もうこれ以上、人を傷つけるな。じゃないと、いつまでたっても罪の呪縛というものに雁字搦めにされ支配され続けるぞ。素直に刑罰に服すんだ。そうすれば楽になれる。お前には次の新しい生活が待っているんだ。」

「杉先生、こんな悪党にそこまで真剣になっていう事、無いよ。第一、杉先生から僕たちを含め何もかも奪っていった奴なんだよ。地獄に落としてやればいいのさ。今まで僕たちの前で騙し続けていたこんな奴、早く死ねばいいんだ。この世で犯罪者と名のつく者は皆、死刑になればいい。」

僕は怒りに任せて思いついた事をそのまま口に出して堰を切ったように言っていた。

「いや、それは違うよ。承君。死刑が全てを解決してくれる訳じゃない。この世には色んな事件があるが、その中で反省も無く死にたがっている犯罪者を殺したとしても本人の望みどおりになるだけで何の解決にもならない。もしこれが心底反省していて生きていくのは辛いから殺してくれと考えている犯罪者を死刑にするんだったら別だけど。でも仮にそれで犯罪者が死刑になったとしても遺族の復讐心は癒されるが、被害者を失った事に対する失望感は、ずぅーと心に付き纏うだけだ。意味を持たない。」

杉先生は優しく諭すように僕に言っていた。

「え〜っ。でもこのままだと悔しいじゃないか?」

「勿論、そうだよ。私も裏切られた一人の人間として考えるなら、この人を殺したい程、憎い。でも犯人が死んだだけで何の解決になる?人はどうせ死ぬ運命にある。充分、反省させないと意味は無いんだ。私はね。この人に充分、反省するという事をさせたいんだ。それにね。この人には心の闇というものがあるんだ。それを変えさせたいんだ。」

「心の闇?」

「そう、心の闇。どんな犯罪者でもみんな私たちと同じ人間。それも血の通った人間。みんな全員、人間という大きな集合体にある。人間、誰だって必ず内部に優しい心というものは持っているものなんだ。この人だって・・・現に今まで君たちの父親を演じていたじゃないか?愛という形をした優しさがなかったら君達と生活していくこと自体、不可能だったはずだよ。ただね。この人は変に歪んでしまっただけなんだ。心を開かせてしっかりと周りが助けてやれば人間本来の生き方が判ってきて優しく変われるものなんだ。」

杉先生は、そう言うと、金田の方に向きを変えた。

「いいか。金田。私の困ってる所が見たいのなら、どれだけでも見せてやる。私に構わず見るがいい。それでお前の気が済むのなら・・・でももう充分見ただろう。私のこんな血色の無いやせ細った体。妻子を奪い取られたこの哀れな姿。しっかり見て満足したはずだ。なあ、金田。今ある自分を苦しめているものから簡単に騙されようとするんじゃあない。少し時間が経てば、自分はこんなちっぽけな事に悩まされていたんだ、と滑稽にさえ思える時だってあるもんだ。歪んだ見方で物を見ず、もっと深い所を直視するんだ。簡単に諦めかけて自分の人生を棒に振るんじゃない。」

「・・・」

金田は、何も言わず黙ったままである。あれだけしゃべっていたのに、今は何も応えようとしていない。

「どうしてだ・・・?」

突然、金田は喉の奥を震わせながら言った。

「ん?」

「どうしてお前は、そこまで自分を犠牲に出来るんだ。何でそんなに馬鹿に成りきれる?俺が・・・お前の前にいるこの俺が、お前の人生そのものを滅茶苦茶にしてやったんだぞ?どうしてだ・・・それなのにどうしてだ?」

金田は自分の侵した過ちを悔いるように体をガタガタと震わせている。

「それはお前には命の長さというものが私よりあるからだ。勿論、私には医者である立場上、命を救ってその尊さを分からせてやるのが私の使命でもある。だが、それよりもっと大事な事をお前にはこの先の生活によって経験して判って貰いたいからだ。」

「何だ?俺に分からせたいことって?」

ゆっくりと大きく深呼吸をして杉先生は言葉を続けた。

「それはな。命ある限り精一杯生きろということだ。そうすれば判るものがある。この世に生まれ出た以上、不必要だった命なんてこの世には存在しない。プランクトンに至る小さなものにだって生命がある。皆それぞれに輪廻転生しながら営みを保っている。生きとし生ける者は、しっかりとその天寿を全うする義務がある。お前を必要とする人間は必ずいる。それを変に歪めて、人を殺めたばっかりに冷たい牢獄で余命を過すより、一日でも早く刑罰に服して社会復帰する事がお前には大切なんだ。いいか。よく聞いてくれ。煩悩振り払い、性根入れ替えてみろ。これからは命ある限り精一杯生きてみるんだ。仕事?そんなのは二の次だ。いいじゃないか。失敗したって。失敗したのなら十年後、成功すればいい。十年後、もしまた失敗したのなら二十年後成功すればいい。サブプライムローン?あの時そんなへんな言葉もあったな。と後で笑えて話せる時が必ず来るもんだ。その時まで待てばいい。私のように死期が近づいている訳じゃないんだ。お前には神様がまだやれる、と与えてくださった何よりも尊い命がある。だから、私の分まで大切に生きろ。」

「・・・」

長い沈黙。金田の目には涙が光っていた。それは一つのストーリーが終焉に近づいていることを意味するものだった。

その時である。全開にしてあった後部座席の車の窓から突然、声が侵入してきたのは。

「やめなさい。監禁するのは・・・杉先生と子供たちを今すぐ離しなさい。」

漆黒の闇の中、はじけるような女性の声。その声の音色たるや、暗い夜の帳りを一気に切り裂き、明るく響かせるものだった。見るとやや離れた斜め前方に看護師の辻さんが立っていた。背後には大勢の漁師達が一人一人武器を携えていた。武器といっても様々であるが、漁の時に使う銛がほとんどであった。彼女達はいつの間にか車を取り囲んでいた。それを見た瞬間、後部座席にいた金田は助手席の杉先生の首筋にナイフを突きつけた。運転手である征司は驚きの眼差しで周りを見回している。

ウィーーーン

運転席の窓も全開になった。

「なんだ。なんだ。お前ら。百姓一揆ならぬ、漁師一揆でもおっぱじめるつもりなのか?」

征司は、漁師仲間に向かってそう大声で叫んでいた。

「征司。おまんちゅう奴は、島の恥じゃ。風上にも置けん。恥ずかしくねえだか?」

「うるせえんだよ。何とでも言え。じじい。」

年老いた漁師の言葉に征司は、すぐさま何の躊躇いもなく逆らっていた。

「杉先生は、あんたらの思うように殺させねえ。島民全員で杉先生を守り抜く。杉先生はわしらの島の光じゃ。島の人間ちゅうもんは団結を重んじるもんじゃ。今まででも、わしらに何かあった時は島民が一丸となって協力してきた。それが、わしらが伝承し、守り抜いてきた先祖からの教えじゃ。」

「島の結束ってか。そういうのが俺は一番嫌いなんだよ。ペッ!」

金田は、言い終えると口元を歪めながら唾を車外に吐き捨てた。

「ふぐ料理屋からここに至るまでのあなた達の声は、わたし達が全部聞いたわ。こうしている間でもあなた達の会話一つ一つ携帯のボイスレコーダーによって全て録音させてもらってる。今までしゃべったことは、筒抜けなのよ。もう観念しなさい。」

辻看護師は自分の携帯電話をこちらに向けて見せつけていた。どうやら録音モードになっているらしい。金田は杉先生をギロリ睨むと身に付けていた帽子とサングラスを金繰り捨て後部座席からおもむろに助手席に上半身を移し杉先生の体を探った。そしてポケットから携帯電話を取り出した。その電話は通話状態になっているのが確認できる。

「くそぉぉ〜〜」

金田は、その携帯電話を見るや、怒りが再発。メラメラと燃える凶暴な炎を瞳の奥に燃え上がらせ釜茹でとなった憎悪が体内で煮えたぎり波動となって体全体を震撼させていた。

すぐさま開け放ったままになっている後部座席の窓からコンクリートの地面に向け携帯電話を激しく叩きつけていた。

「はめやがったな。このやろおぉ〜〜〜」

とても手のつけられない程の狂気が一気に爆発する。

「いや違う。私はただお前に刑罰に服して貰いたいだけなんだ。もうこんなことやめて自首するんだ。いいか。金田。決してお前を嵌めようと思ってした訳じゃない。ただ・・・」

「うるせえ。もうお前を信じねえ。征司、いいか?島の奴らが変な真似をしないように車から引き離せ。邪魔なんかしやがったら構わず撃ち殺ろすんだ!」

そう言うと金田は征司を車から降ろし運転席に移り征司と交代した。

「ガッテン承知ですぜ。兄貴。」

そう言うと愚かな手下は手に持っていたピストルの銃口を群集に向けた。

「やいやい、おめえら。これが目に入らねえのか?死にたくなかったら車から離れろ!」

その後、底抜けに馬鹿になったのをいい事に、この手下は島民に向け、軽く凄んで見せピストルを人差し指でクルクル振り回したかと思うと啖呵をきっている。

「征司、馬鹿な事はやめるんじゃ。」

「島の裏切り者。ナメクジみたいに悪党にへばり付きやがって。」

「征司、あんたなんか豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえばいいのよ。」

一人の年老いた漁師が征司に向け怒鳴ると続いて周りにいた漁師と征司の姉がそれに続いた。

罵声の嵐。

パァーン

それを聞いた征司は天空に向かい銃口を向けたと思った刹那、一発の銃弾を放っていた。

「おぉ〜〜」

漁師たちから驚きの声。この一発の銃声は充分に威嚇射撃の効果となっていた。

それを聞いた辻看護師と漁師たちは車から離れざるを得なかった。

「あそこで花火が上がっているだろ?」

そう言って運転席にいる金田が指した指の先には遠く向こうにある半島の岬で何発もの花火が幾つもの閃光を放っていた。オレンジや黄色、青といったたんぽぽの綿毛が入れ替わり立ち替わり夜光となって夜空を華々しく演出している。まるでそれは暗闇に瞬時に現れては消えていく短くも儚い花火の命を思い知る様なものであった。精一杯はじけることによって、もっと生きてみたかったという憂いを感じさせる意気込みを僕たちの心に伝えさせるものとなっていた。

「あの花火が美しいと感じるのは何故か?わかるか?花火じゃなくてもそれ以外のもの、例えば花が美しいと感じるのは何故か?わかるか?桜が美しいと感じるのは何故か?わかるか?それは儚く舞い散る運命を皆、背負っているからだ。今から俺がお前達を散らせてやるよ。とても綺麗にな。」

金田は、さらにリモートコントロール操作になっている車の窓を全席閉め切った。

「私たちを、どうする気だ?」

「こうして通気を遮断しておかなくちゃあな。もし窓が開いていると車が沈んだ時に、お前らが飛び出してくるかもしれないだろ?だからな、こうして閉め切るんだよ。お前らは、十年間運転してきたこのポンコツの中で海の藻屑となり海底で三人仲良く眠ればいいんだよ。じゃあな。おやすみ。」

「やめろ。そんなことして何になる?私たちを殺して何になるんだ?金田。どうしても殺したいなら私だけにしろ。子供達はよせ。」

全く聞く耳を持たない金田は尚も中断することなく動作を進めている。

金田は、そう言うと車のサイドブレーキを下ろしオートマティック車のシフトレバーをDriveに合わせた。

すると突然、車はゆっくりと前進し始めた。それを確認して、すばやく金田は車から降り、

運転席のドアを思い切り閉めた。どんどん車は海へ向かって突き進み前進する形となった。このままだと車は海に突っ込んでしまう。まるで海の引力に吸い込まれるような形で車はジワリジワリとその車体を転がしていた。

もう駄目だ。今度こそ僕たちは死ぬんだ。もう運を使い果たしてあとは死を待つのみ。

以前、川で和樹が味わったように、死のカウントダウンが今、ここでも再現されようとしていた。

十m、九m。くそぉ〜何とかならないのか?体を動かそうにもロープと神経毒の威力のせいで手足が痺れて全く動かすことが出来ない。

「杉先生ぃ〜」

遠くで聞こえる島民たち一人一人の叫び声。泣く者、叫ぶ者それぞれが一緒くたになり、かすかに僕たちの耳に届いていた。みると車内に取り残された僕たちが、助かるようにと、ただひたすらに手を合わせ拝んでいる島民の姿が、僕達の目に自然に入る形となっていた。

八m、七m。ちょうど和樹が溺れた時は、ここの助手席に座っている杉先生が助けてくれた。さすがに今の杉先生は神経毒の餌食になり、体が麻痺したままとなっている。

そんな中、こんな緊迫した状況にあるのに何でなのだろう?僕はどういうことか?不思議な事に、この目の前の助手席に座っている杉先生のことを瞬時に回想していたのである。

そうか・・・僕は思い出したことがあったのだ。あの時・・・突然、僕たちの前に出現した時から、この人は僕たちと親子らしいことをするのを本当に望んでいたんだ。本当にそれを純粋に思っていたに違いない。僕に冷たくされて別れる時、この人は、[うん、いいよ。合格点]と公園で帰宅しようとしている僕たちに向け言っていた。当初、僕は変な人だな、と思ったが、あれは実の父親であるという事が言えない状況の中、僕たちが気安く誰にでも近づいていかないように僕たちを守った言葉でもあったんだ。今思えば、色んな所で僕たち二人をこの人は守ってくれていたのだ。この人は[自分は君達の父親だよ。]と何度も言いたかったに違いない。たとえ僕になじられようとも、ただじっと我慢して人並みに普通の親子がするような簡単な事、キャッチボールやサッカーを普通にしてみたかっただけだったんだ。世間からすれば実にたやすい親子行動。でも運命はそうたやすく許可しては、くれなかった。世間では、折にも折、小学校に無断乱入して殺人を起こすという殺人事件が世を騒がしていた。この人は、そんな事件の報道を目の当たりにして、僕たちに会えなくなる事を、とても危惧したに違いない。当時、学校側は生徒を守るよう強くガードをしている最中だった。そんな障害にめげず、この人は僕たちの生活を傷つける事無く、遠路はるばると僕たちに会いに来てくれて、様々な障害を乗り越えて、こうして僕たちの前に姿を見せにやって来てくれた。

杉先生は言うなれば、親としての務めから滲み出る真の心というものを僕達に届けにやってきたのだった。

希薄になったとされる現代の親子関係。今ひとつ原点に戻ってみれば、本当の真髄となる親子関係が見えてくるのかもしれない。

それなのに、やっと実の父親がわかり、新しい親子関係が築かれようとしている中で、事態は、もうこれで終焉に近づこうとしているのだった。これからなのに・・・あまりにも短すぎるじゃないか?この人は決して僕たちを捨てた訳じゃない。他人に家庭丸ごと奪われていただけなんだ。急に僕たちに会いたいと思ったのも自分には死期が近づいていると判断した事、それが、おのずと根幹を突き動かす自然行動になっていたんだ。ようやく判った今まで疑問だった事に対する僕なりの答え。それが判った途端、僕から今まで鎧として身につけていた鋭利で棘のような敵意が完全に抜け落ちたのだった。[これだったんだね。お父さん。]僕は悲しみのあまり思わず泣いていた。あまりにもあっけない幕切れに、無念さがつのる。

「お父さん、ありがとう。」

それは僕の心の叫びであったが、それは声となって僕の口から出た言葉と上手く重なりハモっていた。

「えっ?」

杉先生と和樹は声を合わせた。

「お父さん、ありがとう。」

和樹も事情が掴めたらしく、杉先生に言っている。

「どういたしまして。こちらこそありがとう。でも駄目だったね。この新米のお父さんは・・・今こそ君たちを救うべきなのに・・・君達を守ってやれない。救ってもやれない。最期まで君達に父親らしいことをしてやれなかった・・・これでゲームセットかと思うと本当・・・」

気持ちは充分、僕たちに伝わっていた。僕もどうする事も出来ない自分の無力さと今まで事ある毎に実の父親に罵詈雑言を浴びせていた事を強く恥じていた。その悔しさから只ひたすらに下唇を咬み続ける事しか出来なかった。急に目の奥が熱くなり一瞬、唾を飲み込んでみる。喉が痛くなりたまらずに息を吐くと視界全体が、ぼやけて涙がスゥーと頬を静かに流れ落ちていくのがわかった。

気づいたら、三人全員がどうすることも出来ない悲しみに咽び泣いている。

さっきまで岬の突端で見えていた花火は涙で、おのずと瞳の焦点がずれて、おぼろげに映り、手前にあるイカ釣り船の漁り火とダブって見えてしまっていた。

段々見ていると鬼火にさえ見えてきて亡くなった山田老人、トラック運転手の植村さんが手招きしているようにも感じる。

島民たちの視線から見ると、もはや皆の魂が込められたこの車は送り火となりその車輪はジワリジワリゆっくり転がり続け、地獄のように真っ暗な海へと向かっている。まさにその姿は、日間賀のほうろく流しとなり島民達の前を通過しているのであった。

六m、五m。もう駄目だ。と思ったその時である。僕たちの車の右方向から一台の軽自動車が物凄い勢いで迫ってきていたのである。

ガシャーン

その軽自動車は僕たちの大型車の右横前方に激しくその車体を打ち付け、その後、急ブレーキをかけていた。それにより僕たちの車は方向を失い、大きく左に旋回する形となった。それでも尚、僕たちの乗った車は進み続ける。四m、三m。一端進み出した車を止めるには、どんな手段も今のこの状況では不可能に思われた。二m、一m。海に落ちる。そう思った時である。

ガタン!ガガガガガーッ!ギギギギギィーーー!

僕たちの車は一瞬、下に沈みこむ。底を擦る金属の摩擦音。派手な火花が車底から飛んだ。

カラカラカラカラ

静寂に空しく回り続ける車輪の回転音。前輪駆動であるこの車の右前輪が岸壁から落ち込みそれにより持ち上がった左前輪がカラカラと音を立て夜空に空しく鳴り響いていた。火花が飛んだ直後、僕たちの車は車底を擦る形で運良く止まったのである。

「ふうぅ〜助かった。」

僕たちは、ふと安堵のため息が漏れていた。まさに間一髪。車窓から見える遠くの漁り火が一瞬、止まって見えた。

「何だぁ〜どうなってるんだぁ〜」

金田が大声で叫んだ。征司は群集にピストルを向けたまま頼りなく視線をキョロキョロ動かしている。周囲の人間全てが今、この起こった出来事に騒然としていた。

僕たちに衝突した軽自動車は少しの間、その場に停まっていた。

その車は僕たちの安全が確認できた所で中から一人の運転手が降りてきたのである。

運転手は素早く金田の元へと走っていた。

暗闇で視界の鮮明さを欠いたが、しなやかで華奢なその体躯からどうやら容易に女性であることは推測できた。

「何だ。お前だったのか。」

金田はそう言うと一瞬、顔がほころび女を強く自分の元へと抱きしめた。

次の瞬間、[うっ・・・]と言いながら金田の体が女の体全体を包み込む形となった。

みるみるうちに顔が青ざめ苦痛に歪んだ渋い顔へと変化を見せた途端、金田の体は、その場に沈みこんでいった。戦慄が走る。

「あんたは人間の顔をした悪魔よ。人を騙すだけ騙しておいて。地獄へ落ちなさい。この悪魔。」

女はそう冷たく言い放った。誰?いったい誰なんだ?暗闇でよくわからない。

漁師の一人が持っていた懐中電灯で女の顔を照らす。

次の瞬間、女の顔全体が照明に照らし出される。

照らし出されたその顔。それは歩美の母親、望だった。望は、先程会った時から何かおかしいと思い、僕たちの車を背後から追尾していたのだった。

「このアマ。よくも兄貴を。」

征司はそう言うと島民に向けていたピストルの先を望に向け照準合わせると躊躇うことなく引き金を一回引いていた。

ズドン!

天空に向かう銃声と地上に向けての銃声とは明らかに音色が違った。それは一瞬の出来事だった。望は、脆くも地面に崩れ落ちていた。

「征司ぃ〜」

漁師たちの中から突然大声が聞こえた。叫んだのは一番前にいた高瀬という漁師長だった。

「島を裏切って悪党なんかに、媚び諂いやがって馬鹿たれがぁ〜この日間賀を守らん奴は俺たちの仲間じゃねえ。島民一致。島民団結。島の裁きじゃあ〜喰らえ〜」

いきなり銛を持った漁師長が征司に向かい突進していた。

ズドン!ズドン!

再度立て続けに二発の銃声。次の瞬間、二人は一緒にその場に倒れる形となったのである。

「漁師長〜。」

一斉に漁師たちが叫び、漁師長の許へと近寄った。

なんと不幸な出来事であろう。征司は銛一突きで串刺しにされ漁師長は銃で心臓を二回も撃ち抜かれていた。二人とも即死だった。全て一瞬のうちに起こった惨劇である。車から助け出された僕たちはロープを解かれ抱えられたまま、望の所に近寄っていた。

「おばさん。どうしてだよぉ〜?あれほど歩美と誓ったじゃないかぁ〜歩美をずっと待っているって。あれは嘘だったのかよおぉ〜〜〜」

僕は渾身の力を込めて望に叫んでいた。

「ごめ・・・ん。私た・・・ちの幸せを奪っ・・・たあいつが許せ・・・なかっ・・・た。承・・・くん、歩美を・・・たのむ・・・わね」

そう言うと望は力なくその場に崩れていった。

死んだ。歩美の母親、望は死んでしまった。歩美を待つことなく死んでいった。

連日の仕事の疲れもあっただろうに娘を喜ばせるため、原始的な方法にも拘らず、ただひたすら一人黙々と夜中に娘のセーターを編んでいた姿。お金を稼ぐため、リストラにあいながらも水商売までして娘を守り抜こうとした心優しい歩美の母親の姿。その当時の思い出が走馬灯のように僕の頭を駆け巡った。

「なぜだぁ〜〜〜どうしてだよぉぉ〜〜〜〜」

僕たちは、動かなくなった歩美の母親の前で、かなりの時間その場で慟哭していた。

僕の背負っているリュックには歩美に貰った貝殻の箱だけが夜空に空しくカラカラと音を立てていた。それはまるで歩美も一緒にその場で泣いているようにいつまでもいつまでも止むことなく続いていたのである。

平和な島に突如襲った事件。それは一人の男が作り上げようとした愚かなイマジネーションの世界。その真ん中に僕たちは立たされピエロのように踊らされた立役者に過ぎず、仮面を被った男に騙され続けていたに過ぎない。周りに与えたその影響は計り知れず、一人の男によって複数の家族の歯車が大きく狂わされ数奇な運命を辿る事になったといえる。

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大変申し訳有りませんが、諸事情により、次回掲載は遅くなります。
予定では11月半ばと思われます。ご了承下さい。
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