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「遅せえなあ〜。何してんだよ?あいつ。」

もう歩美が中に入ってから、十分は経とうとしている。

残った僕と和樹の二人は、公園でじっと待つことになった。

山田のじいさんの家は、壁の様な高い垣根に囲まれており、垣根の向こうにある庭の盆栽は見えないばかりか、奥までボールがいってしまうと、死角も死角。中で何が起こっているのか皆目見当もつかない状況なのである。

しかもこの夏の昼下がり。

ただ何もせずボーッとしているのが、非常に無意味に思われる。

動かないでいると、汗がジトジト出てきて、かえって体力を消耗させる。

まさに、暑さ地獄との格闘である。真上にある太陽が僕たちの肌をジリジリと焦がす。

かなり暇だ。仕方ないのでカバンに忍ばせてあった軟式ボールを使い、和樹と二人、素手でキャッチボールということになった。少々痛いがそうするしかない。じゃなかったら、このだだっ広い公園でそれ以外、何をしろというのだ?

キャッチボールを始めてしばらく経った時である。

僕たちの知る由もない間に一人の男が、公園の片隅から忍び寄って来ていた。まるで獲物の血のしたたる匂いにつられてきたといった具合に・・・男は少し離れた所に舞い降りたといったほうがいいだろう。まるで悪魔であるサターンが舞い降りたほどの不気味さを周囲に漂わせての静かで怪しげな・・・ものだった。いつからその男はそこにいたのだろう?男は僕たちから十m位の距離まで近づき、僕たちの知らない間に地面から半分露出したオレンジ色のタイヤに腰を下ろしたのだった。

僕たちは全然、その男の存在に気がつかなかったというのが本当の所である。迂闊だった。

まず最初に、男の存在に気づいたのは和樹の方だった。

「ねえ。兄ちゃん。あの人・・・あの人さっきの人じゃない?」

「ん?」

「ほら、あのさっき学校にいた・・・」

僕は、和樹の指さすほうに、目をやった。むせ返るような強烈な日差しが陽炎となり、遠くの景色がゆらゆらゆらめき、画像をあやふやにさせた。

暑さは最高潮。

ようやく像が結びついた時、冗談かと思った。その男は、この灼熱の太陽の中、紺のスーツを着て、馬鹿丁寧にネクタイといういでたちであった。さっき学校で稲垣に押さえられている時は、格好などあまり気にして見ることが無かったが、この灼熱地獄にもかかわらず、ネクタイまでしてさらにスーツはどう見ても奇異だった。顔だけ見ると、ほっそりとした顎のラインを浮き立たせ全体的にどす黒く、日焼けによる小麦色の肌というよりかは、のぼせて疲れを感じさせる暗褐色を呈したチョコレート色という感じが正しかった。学校で押さえつけられていた時の顔は血色の悪い、うっ血感の漂わせる感じを受けたが、それは窮地に立たされているからで普段は何ら顔色には問題ないであろうと思われた。だが、今、こうして遠くから見ても、不健康さは全然消えておらず、見た感じ顔色は臓物であるレバーそのものだった。この人の中にはクールビズという言葉が存在しないのか?年にして四十代前半といったところ。しかも、この炎天下。ただボッーとして何もせずタイヤに腰を降ろしイスがわりに座って地面をジッと見ている。オレンジ色のタイヤとのコントラストが余計に顔色の悪さを際立たせている。身なり格好からして、ホームレスには見えないが、どう考えても場違いな人だった。

「へんなの・・・?」

とても不思議で不気味な人。

「ねえ、兄ちゃん、誰だろうね?あの人?さっき学校に何しに来ていたんだろう?」

「俺も、全くわからないな。どっかの営業マンじゃないのか?さっき学校へは営業しようと構内に踏み入ったんだろうよ。きっと。思うように売れないから、きっとあそこでさぼってんのさ。」

この辺、界隈の人でないことは、百パーセント神に誓っていえる。僕たちから、知られていないというのは、すごい事なのである。

実をいうと僕たち、兄弟アンド歩美は、この界隈において知らない者がいないほど、そのあばれ振りは有名になっていた。

申し遅れたが、僕たちは金田ブラザーアンド金子またの名を、かねとかねがつくところから、ゴールドキッズと命名される程、その悪名高きチーマー名を轟かせていた。僕たちはキャッチボールをしたり、サッカーボールでパスしあったりしてこの公園で遊んだ。公園の近隣地域の窓ガラス、そして盆栽には、幾度となく破壊という足跡を残した。そのほとんどは僕がしているのだが・・・なぜなら和樹が度々ボールを捕ることなく逃げるからである。公園での和樹は僕にとって標的にすぎない。僕から見ると和樹のサッカーにはセンスといったものが全く感じられないのだ。はっきり言うと下手だ。そこで僕は、和樹がいかなるポジションにあろうと構わずサッカーボールをパスする振りをしてみせ、思い切り蹴飛ばしてやったり、野球のボールを空高くほうり投げてやるのである。何故、そんな事をするのか?不思議に思うかもしれない。これはいうなれば和樹が成長する為の社会勉強なのである。そう思う理由は、以前見た航空自衛隊航空救難団を取りあげたテレビにある。それは遭難した人を、いついかなる場所へでもヘリコプターで行き、人を助けるといった特集のテレビであった。いつどこで事故がおこるか?わからない。隊員の人たちは、そういう事態に備えて、常に体を鍛えている。また急に事故が起こった場合に落ち着いて行動出来るように突然抜き打ちで救助訓練を実施したりする。あくまでも、そのことは隊員の人たちには秘密にしてあって、いきなり通報があって訓練を行なうというものであった。僕はその自衛隊の人たちに憧れるとともに、格好いいなと思い酷く感銘をうけた。我々にもそれが必要であると考えるのだ。そもそもこの和樹には、変な時に僕を逆撫でして変な事をポロっと言ったりするし、調子こいてKYなところがあったりする。和樹には今後、社会の辛さというものを、ボールというもので体験させなければいけないと隊長である僕は考える。

じゃないと、将来、周りの人が和樹のデリカシーの無さに迷惑をする。ましてや将来、その兄が日本を背負って立つプロサッカー選手になろうとしているのに、弟はサッカーがまるで駄目とあっちゃ金田家の恥である。それこそDNAの質を値踏みされてしまうし、僕の汚点にも繋がる。だから僕がこうするのは必要不可欠なのである。言うなれば、弟を思うがゆえの兄貴の優しさなのであると僕は勝手に・・・考える。

歩美に関して言えば、誠に申し訳ないのだが、登下校、僕たちと一緒であるがゆえに罪を被せられているというのが実際の所である。ほんとよく僕たちの茶番劇に歩美はよく巻き添えを食う。家の住人達は、ゴールドキッズという枠組みで僕たちを評価しているからして歩美には本当に悪いと思っている。まあ、身内なんだし三人合わせてゴールドキッズ。なかなか格好良くていいではないか。許せ、歩美。

「とぉりゃ〜」

「うぉりゃ〜」

掛け声もバリエーション様々である。

それもみごとに和樹に命中すればの話だが、大抵は的がはずれたり、和樹が逃げたりして公園から出たサッカーボールは放物線を描き近隣にある家の柵を越え、棚にのっている楓などの盆栽に命中した。

ガチャーン

僕たちは、地面への落下音が聞こえたら、四方八方に逃げるようにしていた。まるでそれは、蜘蛛の子を散らしたように・・・

住民も大抵は、そんなことするの僕たちしかいないとほぼ断定していて構わずに叫んで追いかけてきた。

「コラッーゴールドキッズ。お前らが、やったということは、ちゃんとわかっているんだからな。今度という今度は、許さないぞ。」

家の主はまるで銭形のとっつぁんのような言い回しで追いかけてくる。

決まって僕と歩美は逃げ切ることが出来たが、大抵は和樹が捕まった。ノロいがゆえの宿命である。それでも、わが弟のいい所は、住人に身を捕獲されたとしても決して兄ちゃんが悪かっただのと口を割らない所である。ある意味、こいつはノロいが将来大物になる素質は充分に兼ね備えたツワモノである。

そんな和樹の大物ぶりと歩美の寛大さに僕も触発されて、決して手を緩めるといったことはしなかったし、たとえ誰それに怒られようとも懲りずに何度もやった。それが、僕たちゴールドキッズの誇りでもあった。

中でも常連なのが、今、歩美がお世話になっている山田老人。

まあ、山田老人のくわしいことは後で話す事にする。

そんなちまたのちょっとした有名人でもある僕らが、この辺、界隈で見た事ない顔というのだから、よっぽどなのである。

さわらぬ神にたたりなし。

男に対して多少の怖さと不気味さはあったが、僕らは構わずキャッチボールを続けた。

いくら軟式ボールとはいえお互い距離を離しての素手でのキャッチボールは辛い。

続けるたびに、指先が、赤くなりジンジンしてくるのがわかる。

僕と和樹の我慢比べだ。

「それにしても暑いね。兄ちゃん。熱射病になっちまう。ジュース買いに行こうよ。」

和樹が暑さを口実に音をあげだした。

「うるさい。だまれ。これも訓練のうちだ。」

と言おうとしたが、さすがに死にそうなほど暑い。さらにヒリヒリしだした手のひらの痛みがあったため、ここは素直に和樹に従うことにした。

僕たちはキャッチボールをやめ公園と隣接する側道との間にある自販機へと急いだ。そこでペットボトルのサイダーを購入した。それを木陰に持って行き、ベンチにドカリと腰をおろした。

フタをひねると、プシュッという小気味よい音とともに、手にしっかりとした風圧を感じる。それまで無色透明で穏やかだった液体に無数の気泡が生じ、次から次へと水面に表れては消え、表れては消えた。一口ごくりと飲んでみる。

シュワッという音とともに、のどに直撃、気泡が食道の内表面を、そぎ落とさんとするかのように急速冷却させながら通過していった。

「ぷはぁっーあっーーー」

僕たち二人は、至福の時とでも言える一口目に声を合わせて叫んでいた。

二,三口飲んだところで、のどの渇きが少しおさまった気がした。

「兄ちゃん。このサイダー、ナカナカいけますな。」

「ああ・・・」

和樹は落語調の言い回しで僕を挑発しにかかる。そんな手に乗ってたまるか。

「御奉行様。あの歩美とか申す小娘一人に働かせて、手前共は、その裏でこうして宴を催しているなんざ、格別この上ない幸せといったら、ありませんですな。」

「ほんと、まったくよのぉ。このあっちぃおてんとさんの下、喉の奥にこのシュワッとする感じは実に爽やかなものよ。五臓六腑に染み渡る所が実にいい。しっかし、越後屋。お主もナカナカのワルよのぉ〜。はっはっはっ。」

和樹の悪人風の口調に僕もいてもたってもいられず応戦する。しまった。和樹の調子に見事に乗せられてしまった。僕の悪い癖だ。

「兄ちゃん、あれ見て。あの人」

まだ僕の中では、和樹の誘いに乗らされてふざけている最中だったのである。すると突然、和樹が遮るように先ほどの男に向かって指を指していた。男はさっきから全然場所も変わらず、同じ場所に座っていた。見ると男の額から汗がダラダラ流れている。さぞや暑いに違いない。それなのに男といったら全然その場から離れようとしない。

「何してんだ?いったい?さっきからあんな所で。」

僕は、変人でも扱うような物言いで男の方に顔を向け、叫んでいた。

「あの人、僕たちがキャッチボールしている時からあそこにいて、こっちをチラチラ見ていたんだ。」

[へえ〜そうなんだ。]和樹に言われて男が、こちらを見ていたという事実を僕は初めて知ったのだった。僕は、男から背を見せる形で和樹とキャッチボールをしていたため、男の動向が気にならなかったが、自分と対面にいる和樹には、男の一部始終が見えていたのだった。ここで、僕たちの気にしていた男は営業マンかも?という疑問は除外された。なぜなら学校へ営業しに来たのであれば僕たちだけに興味持つ訳無いからである。

「暑くないのかな?あのおじさん。このサイダー持っていってやろうか?」

「バカっやめろ」

僕は強く和樹を制した。

[知らない人に、ついていっちゃ駄目よ。ついていったら殺されちゃうんだから。]

いつも、母ちゃんが口を酸っぱくして言っているのを思い出した。和樹もよくそれを知っているはずだ。

それにしても暑いのは間違いない。天気予報では、降水確率0パーセント。雲ひとつない晴天になるでしょうといっていたし、予想最高気温は、三十七度にもなるといっていた。温度計を持ってはいないが、計測するとしたら、ちょうど今が、その時であると思う。水分も補給せず、この炎天下に日よけもせず熱射病にならないのが、不思議なくらいである。

僕たちの座っているベンチの背後には大きなまきの木が一本聳えていてあいにくこの公園には、日陰を得られる空間といったら、このベンチしかなく、言うなればこれは僕たちがいつも陣取っている専用のベンチなのである。まさに、居心地のよさを男に向かってあてつけているみたいだった。遠くから眺めていても男の額から先程より一層汗が吹き出ていて、テカテカ光っているのが確認できる。まるで、一人で我慢大会をやっているといっても、全然おかしい状態ではなかった。

そんな状況なのを尻目に僕たちはサイダーをどんどん口に流しこんだ。ペットボトルは五百mlの容量ではあったが、僕達二人には、たわいもない量だった。

分注しながら、体に流しこんで、後々のため少しだけ残しておくといった芸当には、とうてい結びつく気にもなれなかった。

「母ちゃん。今日の晩ごはん、何作るんだろうな?」

「一番上は、魚がのっていたの、僕は見たよ。」

「う〜まじかよ。それ。」

うちの母ちゃんは、普段から冷蔵庫の中を綺麗に整理整頓している。A型特有の几帳面な性格で、ふぞろいなまま終わらせることや、中途半端に終わらせるということは、元々嫌いらしい。たとえば財布の中のお札の向きや、ポイントが貯まると景品が貰えるといったカード類はキチンと整理されていて、財布の中を、所狭しと埋め尽くしていた。僕は、お金を盗った事は、一度もなかったが、いつもチェックしているから、よく知っている。どうやら母ちゃんは、僕が財布は棚の二段目の引き出しにあって、定期的にチェックしているなんて、夢にも思っていないと思う。そんな母ちゃんだから、今晩のおかずは、何がくるか?は冷蔵庫の中をひと目見て、一番上に何が乗っているかを判断すれば楽に推測できるのだ。そもそも我が家には電子レンジがない。買えないというわけではないのだが、使わないで料理するというのが母ちゃんの心情らしい。多分、うちの母ちゃんは昔、電子レンジに痛い目に合わされたのだと僕は推測する。だから、うちには解凍器という御大層なものはなく冷凍庫に入っているものを溶かす場合においてその日の食材を一旦冷蔵庫の一番上に登場させ、それが夕食時、今日一番の我が家の食卓を飾るスターになるのだ。

昨日は、僕が見た時は、冷凍庫にあったひき肉が冷蔵庫に移され、最上段に、うやうやしく鎮座して解凍されるのを待っていた。案の定、その日の夜は、僕たちの憧れハンバーグ様が登場し、僕たちの胃袋を満足させてくれた。ということで、今日も続けてハンバーグが参上するということは、絶対ないと思っていた。嫌な予感がしたのだ。一瞬、ならば肉かな?ということも考えたが、あえて何かの記念日があるわけでもなく、当分無いことは、判っていた。

「でもね、兄ちゃん。僕、さかな嫌いだから、一番上に冷凍庫から持ってきた肉を置いといたよ。今日、すきやきぐらいしてくんないかな〜。」

「全くだな。」

兄貴である手前、軽く返事をしておいたが、内心、でかした我が勇敢なる弟。という気持ちでいっぱいで思わず抱きしめてキスしてやりたい気分だった。普段からの自衛隊ばりの訓練が無駄には、終わっていないことの証明された時でもあったといえるだろう。

「あれ?どこだ?どこにいった?さっきのおじさん?」

ふと見ると、さっきの場所には男の姿はなかった。僕たちが話しに夢中になっている間に、どこかへ行ってしまったらしい。でも十秒前は確かにいたんだ。あそこに。話しの最中でも僕は男が気になりチロチロ見ていたんだから・・・なんと素早い奴なんだ。でも一体何だったんだ。何がしたかったんだ?疑問を深めるとともに、原因の判らない悪寒が、僕の背中に走っていた。

「どうする?兄ちゃん。スカウトマンだったら・・・」

「スカウトマン?バカッ。何言ってんだ。変なこと言うなよ。そんなこと、あるわけないだろ。」

「わかんないよ?さっきの人、兄ちゃんの投球フォームばかり気にして、こちらをチラチラ見ていたんだから。」

「和樹、あんまり変な事ばかり言っていると、殴るぞ。とっとと配置につけ。もういちど、キャッチボール再開だ。」

和樹は、なんだつまんないという感情をあらわにして、後ずさりしながら、配置につこうとしている。僕は思いもかけない和樹の言葉に、内心ドキッとして急に胸がザワザワしだした。そうか。スカウトマンということも、充分あり得る。でも、ちょっと待てよ。野球の業界については全く知らないから、わからないのであえて言わせてもらうが仮にも僕は小学六年生。そんな時から、果たして、選手を確保しようとするだろうか?しかも、一人で来るなんて、あり得ない。それに、キャッチボールをしていた僕の投球フォームを背後から見ていたという点も気になる。すごい剛速球を投げていたのならまだしも、小学六年生と小学五年生がお遊び程度にやっていた素手でやるキャッチボールごときにそこまでの魅力を感じたとは到底思えない。

でも、もしあの人が、読売ジャイアンツのスカウトマンだったら・・・

今日以外の日に、僕が投げていた剛速球を聞きつけて、どれほどの肩をもっているのか?見に来たとしたら・・・

今日は、あくまでもお忍びで来ているので、一人で来たのだとしたら・・・

超豪腕投手の前で、失礼のないように、身なりだけは、整えておこうと思い、暑いにもかかわらず、スーツを着てきたのだとしたら・・・

いやぁ弱っちゃうなぁ。小学六年生に、そこまで気を使わないでくれよ。

僕にある妄想の中の新聞三面記事の表紙は、こうだ。

豪腕小学六年生。金田 承君の夏休み。なっ、なんと、いつも弟を面倒みているという心優しき美少年。これぞ美しき兄弟愛。

自分でいうのも何だが、確かに、僕はその辺の同級生より負けない強い肩はもっているつもりだ。本当はサッカーが得意なのだが・・・まあそんな事どうでもいい。いつも和樹とキャッチボールをしているので、僕は自分の投球の実力はどの辺なのかよく判っている。握力だって、他の人と比べたら充分強い。やるもんだな。読売も・・・リトルリーグに属してさえいない少年に、しかもこんなに早いうちから、目をつけるなんて。

これから僕はサッカーよりもキャッチボールに重点を置くべきなのか?ハニカミ王子がいるんだったら、ハニカミ剛腕小学六年生がいたって全然おかしくない。困るんだよな。プライベートのことに、そこまで入って貰っては。ということで・・・いかん、いかん、僕は、すぐその気になりやすい。完全に和樹の言葉に舞い上がっている自分が、今ここにいる。

「兄ちゃん、ごめん。ごめん。」

ふと我に返ると、和樹の声が真っ先に飛び込んできた。

「全くだよ。おまえは・・・変なこと言いやがって。」

何やら、僕に向かい両手を合わせ、謝りながら、後ろを向けと手招きしている。どうやら、考えていたことではないらしい。先ほど、僕が放り投げてやったボールは、すでに和樹の手元に無い状態だった。

「後ろ。後ろ。」

和樹は、僕に向かって叫んでいた。

「ん?」

僕の背後で何か物が地面に当たる音がしたので、後ろを振り返るとボールが放物線を描き、二,三回バウンドしながら先へ先へと向かっている所だった。ボールの行く方を確認しながら、僕は追いかけようとダッシュを試みる。ものの二、三秒。歩数にしたら四、五歩進んだところで、僕の足は突然止まった。

ボールはしだいに球速を失い、コロコロと転がり出した。僕の見る先つまり進行方向には、さっきの男が立っていたのだった。

晩ごはんは、やはり魚だった。テーブルに鯖の煮付けが並んだ時に、僕と和樹は、ブーイングをして、僕は和樹を睨んだ。

テーブルに並んだ、鯖の煮付けは骨がことのほか多く、嫌い度を余計に増幅させた。それでも三十分後には、なんとかサラダ、煮物、味噌汁といった物と一緒に食べ終え、僕たちは食後のデザートであるヨーグルトを食べていた。口火を切ったのは、母ちゃんだった。

「最近、この近辺に怪しい人が現れるんだって。あんた達、知らない人を見たら、ついていっちゃダメよ。誘拐されちゃうんだからね。」

僕たちは、それを聞いて和樹とふたり目を合わせギクリとした。

「でもさあ。母ちゃん。誘拐って、それなりの身分の子が対象になるだろ?仮に僕たちを誘拐したって、犯人側からしたら、そう得にはならないと思うんだけどな。」

新聞を見ていた父ちゃんが、少しずらし僕を睨んだ。母ちゃんは、軽く微笑んで続ける。

「バカねえ。最近の誘拐って、お金が有ったって無くたって関係ないんだから。新潟であった事件なんて当事、小学四年だった女の子が下校途中に誘拐され、実に九年二ヶ月間もの間、監禁されていたみたいよ。身柄確保された時は、十九歳になっていてPTSDという病気になってたみたいだからね。」

「PTSD?何?それ?」

「不安、不眠などの症状。これは事件で経験したトラウマからくるものなの。つまりこの場合、監禁された事ね。そこから事件のフラッシュバックが一ヶ月以上続く状態になる。事件が解決した後も強い衝撃を受けると、精神状態はパニックになるらしいわよ。あんた達も誘拐されると、なっちゃうわよ。そのピーテーエスデー。」

えっ?シマウマがオールバック?そしてパニックになりPTAになる?僕にとっては全くトンチンカンだ。思わず想像してしまった。

母ちゃんは不敵な笑みを浮かべ、僕たちを見渡した。どうやら僕たちに恐怖心を植え付けて、いかに怖いことかを表現したいらしい。あまりにも難しい言葉が多すぎて話の六十パーセント位しか判断できないが、話しの迫力度からして事の重大さ、怖さが百二十パーセント僕たちには伝わってくるものだった。何も見ていないのによくあんなスラスラと言えるものだ。おかしい。前もって用意周到に準備していたに違いない。それは母ちゃんの罠に嵌めてやろうとする魂胆と先まで見通す洞察力が、糾える縄のように僕たちをキュウキュウ締め上げて苦しめようとしていた。僕たちは尚も罠に嵌まってなるものかと、やせ我慢をして対抗する。

「長崎では、こういう事件があったのよ。被害者の男の子は、家族で大型家電量販店に買い物に来ていて一人でゲームコーナーで遊んでいた四歳の男の子。その子に対して、加害者の当事中学一年の少年が、[おとうさん、おかあさんに会いにいこう。]とだまし、連れて行ったことからこの事件は始まる。その後、路面電車に乗って町を連れまわした後、パーキングビル屋上で男の子を全裸にし、腹などに殴る蹴るの暴行を加えた。更にハサミで性器を数箇所切りつけた。」

僕たちは、慌てて股間に手を置き、ガードした。尚も母ちゃんの話しは続く。

「だけど、その時少年は防犯カメラが設置してあったことに気づいてパニックになり、泣き叫んでいた男の子を何とかしなければと思い、四階立ての屋上から突き落として殺害。」

ゴテッと言いながら、前のテーブルの上に母ちゃんは上半身を横たえた。手をぴくぴく動かしている。

かと思いきや、すっくと起き上がり尚も間髪入れず、母ちゃんの話しは続いた。母ちゃんの身振り手振りを用いての迫真の演技はナカナカのもので、劇団四季とはいかないまでも、僕たちを震え上がらせるには充分すぎるほど充分な演技だった。僕は、目を大きく見開き目にいっぱい涙をため、泣かないよう我慢した。和樹はというとヒックヒックし始め、少し震えている。僕たちは辛抱するのに精一杯だった。

「誘拐とは違うけどこういう事件もあったわね。大阪であった児童殺傷事件。加害者の男は自宅マンションから自家用車で小学校に無断で乗りつけ、あえて何の抵抗も出来ない小学一、二年生の教室を選び侵入。長さ二十八センチの出刃包丁を凶器に、居合わせた児童を次々と襲い、八人もの幼い命を平然とした表情で奪い、死に至らしめた事件。詳しい状況は、まず二年南組に入り、女の子ばかり五人を無断で刺したことから始まる。

続いてテラスから隣りの西組に移り児童を襲い今度は廊下に出て、その隣りの東組に入り、四人を襲った。男は外に一端出たところで、タックルしてきた教師の胸を刺し、重傷を負わせ、その後、教師の[逃げろ]という声に近くにいた児童は中庭に逃げていく。男はその児童たちを追いかけた。しばらく追いかけたところで、引き返し再び一年南組に入って四人の児童を切りつけ取り押さえられた。」

母ちゃんは近くにあったカバーがかかったままになっている果物ナイフを持ち、僕たちの後ろを左から右へ動いたかと思うと、今度は右から左へすばやく動いた。

「また、こういう事件もあったわね。大阪の寝屋川というところでは・・・」

といったところで僕たち二人は、もう、やめてーと言いながら泣き叫んでいた。

よく見ると母ちゃんの近くのテーブルの上には、印刷されたA四の紙が用意されていて、今言った事件のあらすじが書いてあるような感じだった。

母ちゃんの演技に翻弄され、完全に僕たちは恐怖心をかきたてられ罠にまんまと嵌まってしまったようだ。

母ちゃんは、いかにも勝ち誇ったように、勝利のガッツポーズをとり、

「魚を、肉とすり替えるからよ。」

といいながら僕たちが食べ終わったヨーグルトの食器を片付けていた。

すりかえたことに対する代償がここまで及ぶとは思ってもいなかった。

「でも、あれだよな。俺たちの小さい頃は自由に学校内に入って、運動でき、思いっきり遊んだもんだけど、今は難しくなってきたよなぁ。」

父ちゃんが昔を懐かしむように、ヒゲをボリボリ掻きながらポツリ呟く。僕はそんな父ちゃんに今日、公園であった事について尋ねたいことがあったのだが、母ちゃんの話しを聞いて、余りの恐怖心に気持ちが萎縮してしまい、とても尋ねる状態ではなかったのだった。

「そうね。昔と違い今は変わったわね。過去のことは、段々、忘れ去られるのよ。」

母ちゃんの意味ありげな返事と共に、その日の夕食の後の一家団欒は終了となった。

ここで僕の中に完全に形作られてしまったものがある。それは昼に公園で会った謎の男イコール極悪人というイメージである。僕は、かなり単純なのかもしれない。

その夜、僕はナカナカ寝つけなかった。和樹はというと、よほど疲れたのであろうか?

いつの間にか、遠く夢の世界に旅立っている。あれだけ母ちゃんの話に怖がっていたのに・・・鈍感というか、無頓着というか、大物の器さながらである。

勿論、僕の寝付けない理由は昼に公園で会った謎の男の事だ。

その男はボールを拾い、一人たたずんでいた。

僕たち二人はその男の元へと歩み寄った。

気になっていたこともあり、危険だとは思ったが、僕の方から、話していった。

「おじさん。野球のスカウトマン?」

男は最初、何のことやらさっぱり訳がわからないといったような顔をしていたが、しばらく考えて、ようやく事情が掴めたらしく、首を横に振った。

「君たち、キャッチボール好きかい?」

男の声は初めて聞いた優しそうな高い声だった。学校内で押さえられている緊迫した声とは、全然変わっていた。風貌からして、もう少し低い声を想像したが、どことなく柔らかい響きを持っていて、非常に好感の持てる声だった。二人の代表でもあり和樹の兄である僕が代表して、首を縦にふり

「うん」

とうなずいた。

「おじさんも入れてくれないかな?」

「ごめんなさい。実はもうこれで終わろうかな。と思っていた所なんです。」

実のところ、歩美がくるまでやろうかなと思っていたのだが、僕はその男に嘘をついた。

「君、承君だね?向こうの君は弟の和樹君。」

「何でおじさん。僕たちの名前、知ってるの?」

男は困ったような顔をしていたが、しばらく考えて僕たちに、こう言った。

「おじさんはね。超能力者だからだよ。」

「兄ちゃん、超能力者って?」

「ごめん、ごめん。超能力者って、わかんないか。普通の人では、持っていない能力がある人のこと。たとえばね・・・」

といいながら、男は僕と和樹二人の間をしきるかのように右手を割って入れ、手の平を上に向け広げてみせた。

「よく見ててよ。」

といいながら、広げた手をゆっくりと閉じていった。そして次の瞬間、一端閉じた手を、また再度開いてみせた。

開いた手の平には、袋にそれぞれ包まれたブロックチョコレートが二つ表れた。

「すげえ。」

と和樹が叫んだ。

「さあ、どうぞ。」

といいながら、男は僕たちにチョコレートを渡してみせた。

「こんなん手品じゃん。超能力じゃないよ。」

と僕がいうと、男は、はははと笑い、お手上げという仕草で両手を上に挙げてみせた。

和樹はうまく騙せたとしても、そんな事で僕を騙せると思っているなんて失礼な話しである。

チョコレートなんて、袖に隠してあったものであろう。どうせ近くの店に行き、チョコレートを買って服の袖に仕組んでおいたんだという事は明白だった。

僕たちを誘拐でもしたいのであろうか?そういう小細工をするあたりが、怪しかった。

「君たち、お父さんっているよね?」

男は、僕と和樹の目を交互に見て言った。

「うん」

和樹は頷き、僕は無視をしていた。

「優しい人かい?」

「うん」

またもや、同じ状況が続いた。

「何やってる人?」

「そんな事、おじさんに言う事じゃないでしょ?」

僕は、激しく、その男に反発した。

「うちの父ちゃんはね。普通のサラリーマンさ。」

「和樹、黙れっ。」

僕は和樹を睨みつけ叱った。

「そうか。サラリーマンか。サラリーマンっていいよね。ある程度、働く時間帯が決まっているから。ましてや当直みたいな事あるわけでもないし・・・」

[何、訳わからない事、言ってるんだ?この人。]男は僕たちの父親はサラリーマンしているという答えに羨ましく思っているようだった。

「失礼します。僕たち家に帰らないといけないので。」

と言うなり僕は男が手に持っていたボールを強引に引ったくり踵を返しながら、スタスタと山田老人の家に向かい勇ましく歩いた。和樹は、そんな僕をポカンと口を開け、事の成り行きを眺めていたが、

「和樹いくぞ。」

と僕が言うと、慌てて後ろからついてきた。

「うんいいよ。合格点」

空耳だったのかもしれない。十mくらい歩いたところで、そんなような声が聞こえた気がした。僕は立ち止まり、その男の方を振り返ると、男は僕のそっけない態度に落胆するばかりか、むしろ僕達に向け微笑んで喜んでいるように思われた。

「和樹、急いで歩美を呼んできてくれ。いつまでもスイカ食ってんじゃねえ。兄ちゃんが怒ってる。と・・・」

僕は山田老人の家の後ろ、つまり公園にいる男の視線が届かないところにきた時に和樹に話しかけた。

そして一分もしないうちに歩美と和樹が現れた。歩美はカキ氷が食べれなかったせいか少し元気が無い様子であったが、僕たちは敢えてその点には触れず気に掛けることなく家路に向かったというのが経緯である。

これが僕たちが公園で、男と交わした一部始終。

男は父ちゃんの存在を酷く気にしていた。父ちゃんの知り合い?

だったら、なぜ父ちゃんに直接に会いにいかないんだ?

それに気になることは、僕たちの名前を知っていた事。

何で知っているんだ?男の目的は何だ?父ちゃんには失礼だが金目的では無さそうである。

「うんいいよ。合格点。」

何が合格点なんだ?

僕が冷たくした事がか?

それに何で笑っていたんだ?気持ち悪い。男はSMを楽しんでいるというのか?

本当にそれが目的なら、そんなの僕じゃなく、違う所へ行って楽しんできてくれ。

まさに変な人だった。

考えれば考えるほど僕は樹海の奥深くに、さまよい歩いていくようだった。

次の日、僕たち兄弟と歩美は、二台の自転車で郊外にある神社に向かっていた。僕は和樹の自転車を奪って乗り、歩美は後部座席に小さくくっついて座っていた。和樹は僕のサドルの無い自転車に無理やり乗らされていた。不承不承である事が表情から読み取れた。なぜこの場所を選んだのかという理由は、場所を変えて、昨日の男に会わないようにしようと思った僕なりの考えがあってのことである。その神社は、石段をちょうど二百段登りきった所にあった。

本来なら、僕たちはここに来ることは滅多にない。

なぜなら、石段二百段登りきるのが、面倒臭くてしかも真夏の暑い日に登るというのは、精神状態を疑われても不思議ではないからだ。そこを、僕たちは、あえて選んだ。

すべては、昨日のあの男から逃げ切るため。

「暑いわね。」

二十段登りきったところで、歩美は弱音を吐く。

「ああ。」

僕が応える。

「うん。」

続けて和樹も、応える。二人ともそれは、否定できないらしい。あたりまえだ。

「本当、心臓やぶりの石段よね。これは。」

「ああ。」

「うん。」

気温は昨日とさして変わらずの三十七度をまたもや叩き出そうとしている。

「なんで私たちがこんなことやらなくちゃいけないの?」

「しょうがないよ。今朝、兄ちゃんが、ちょっとは場所を変えてみようと言ったんだから。」

あえて男から逃げるため、僕はこの地を選んだことを石段に登り始めた所で後悔した。僕たちは今から二百段の石段に登ったあげくに、キャッチボールをしようという暴挙に出ようとしているのである。しかも歩美は当たり前にわかっている事だが女だ。何かというと自分の女友達をさしおいて身内である僕たちを最優先してくれる。しかも、この二百段を・・・誠に脱帽するに値する行為だ。

「あ〜しんどぉ〜今、いくつ?」

「八十段。」

「まだ八十?あ〜死ぬうぅ〜」

「歩美、そんな風に弱音を吐いて、俺たちの士気まで下げるの、やめろよ。」

「だってしょうがないじゃない。ほんとに、辛いんだから。」

「それは、俺たちも同じことさ。さあ、頑張るぞ。」

手にもっているグローブが、汗ばんでいるみたいで、僕たちから出る汗を、まるで受け止めているようにも見える。まさにびしょびしょである。

「ねえ。承君、和樹君。この辺で中断して、木陰で休まない?」

百段登りきったところで、歩美が言った。

石段の隣りは、ひんやりとした林が続いていて、僕たちを手招きしているようである。

「いやだね。」

僕は林を一目見て即答で返してやった。

「ちゃんと、最後まで登ろうよ。」

和樹も登る気満々で答えている。

僕たちは決められたことは、ちゃんと遂行する出来た兄弟である。

「これを作った人は、すごいわね。だって二百段よ。二百段。エジプトのピラミッド作った人と匹敵するくらいすごいことよね?」

「おまえ、それはここを作った人を褒めすぎだろ。格段にエジプトのほうがすごいだろ。むこうはこういうのが、いくつも積み上げてあるんだよ。歴史だって、むこうの方が古いだろうし。」

「そりゃそうだけどさ。そうでも思わなきゃ登れないわよ。こんなの。あ〜たちゅけて〜」

「あとちょっとだ。頑張るぞ。」

「絶対、私のこと、女と思ってないわよね。」

「・・・」

「ちょっとお〜、何で何も言わないのお〜?」

「歩美姉ちゃん。」

「何?」

「弱音吐きながら登るのやめてよ。気が散ってしょうがない。」

「すまないねえ〜。若人たち。」

歩美は、老婆のふりをしてみせ普段の若さは何処へやらという感じである。きっとこの三人の中でサバイバルをしたら真っ先に歩美が死ぬであろう。美人薄命とはこのことである。

しばらくすると百五十段登ったところで、脇にある林の木陰で涼んでいる僕たち三人の姿があった。この暑さの中、一気に二百段は無理だ。やっぱり歩美は正しい。

言葉を変えて言うならば変人と等しい行為である。

ミ―ンミンミンミンミンミーィー

ミ―ンミンミンミンミンミーィー

林の中は、蝉の大合唱である。僕たちは、蝉しぐれの洗礼をうけていた。

「蝉の一生ってどのくらいなのかしら?」

歩美がポツリそう呟く。

「卵、幼虫、成虫といったそれぞれの期間はあるものの、蝉は幼虫として地中で十年くらい過すらしい。」

「え〜蝉って短命じゃなかったの?」

「それは、成虫になってからの話だ。幼虫で十年、生きているということ自体、昆虫類でも上位に入る寿命の長さを持つんだよ。」

「へえ〜そうなの?成虫になってからは、どれくらい生きるものなの?」

「だいたい地上に出てきて成虫になってから、十日くらいと言われている。でもこれには成虫の飼育がとても困難で、虫かごの中では、すぐに死んでしまうことからきた俗説で野外で普通にしている分には一ヶ月ほどとも言われているんだ。」

前にある木に体をかがめながら、和樹が忍び寄っていく。よく見ると、その先には木の幹に一匹の蝉がとまっていて、お尻を何度も出し入れして楽しそうに鳴いているのが確認できる。

ミ―ンミンミンミンミンミーィー

ミ―ンミンミンミンミンミーィー

周りの蝉と一緒に大合唱だ。

和樹はというと右手を半円形に形作り、蝉の前へと抜き足差し足で忍び寄っていた。

どうやら彼は素手で蝉を捕まえようとしているらしい。

一瞬、蝉の声が止まる。蝉は、これから起こりうるであろう出来事に和樹から殺気のようなものを感じ取ったようだ。

和樹の手が振りかざされた、まさにその瞬間、蝉は和樹の頭上に飛び立ち顔へ目掛けて放尿して、どこかへ飛び去っていってしまった。

「やられたあ〜。しょんべん、顔にかけられた。」

和樹はその場にうずくまり、顔を押さえた。酷く残念そうである。

「蝉は、狙っている訳じゃないんだ。和樹。許してやれ。」

「ん?そうなの?」

「蝉は成虫となって外界に出た時が勝負なんだ。いかに短い命を精一杯生きるのか?そのためには精一杯鳴いて外界での生活を最大限楽しんでいるんだ。人間につかまったりしないよう頑張っているんだ。必死になって体を軽くするため放尿し精一杯生きようとする。まるで捕まると、ムシカゴの中のストレス社会に放り込まれて余命が短くなってしまうということを最初から知っているかのように。」

「それ聞くとやっとの思いで外に出てきた蝉を私たちの力によって短くさせることが、罪に思えてくるわね。」

みると僕の足元から少し離れて一匹のアブラ蝉が木の根元でこちらに腹を向け死んでいるのが見える。僕は、その蝉を拾い上げていた。死んでかなりの時間が経過しているらしく、体が硬直しているようだ。体内の水分が蒸発したのであろうか?魂を失ったその蝉は非常に軽くなっていて干からびているのだろう。茶色の丸い目玉の中の黒い小さな斑点が、精魂使い果たして安らかに眠らせてほしいことを、僕に訴えかけてきているように写る。

よく見ると目と目の間に小さな赤いルビーのような透明な粒二つ。キラキラと光っているように映り、今まだ、生命の息吹を感じ取る錯覚に陥いらせてくれる。

「お疲れ様。しっかり役目を果たしたんだな。お前。安らかに眠れ。」

そう言うと僕は、近くに穴を掘り、蝉の死骸を土中に埋めていた。

上に小石をのせ、簡易な墓を作っていた。僕たちはその前で両手を合わせ拝んでいた。

自然界には、掟がある。自分勝手に、その掟を破ることは、あってはならない。

特に、自殺なんて行為は、自分勝手な自分の都合以外の何ものでもない。人間界だけに特別に存在する自己逃避、最大の武器である。

僕は、ふと昨日、母ちゃんが言っていた事件を思い出し、悪者らしく口に出して言ってみた。

「死刑は殺される刑罰や。六ヶ月過ぎて、いつまでも嫌がらせをさせる刑罰ではないやろが。すぐ殺せば、ダメージがないやろで、早く殺せや。しばらく嫌がらせをしながら執行する。そんな条文が、どこにあるんや。裁判官なら、わしの身になれや。法律を守るのが裁判官の仕事やろが。」

「何?それ。」

歩美が聞いてきた。

「大阪であったとされる児童殺傷事件。知ってるかい?」

「うん、あの勝手に学校に侵入して無差別に児童をブスブス刺したっていう事件でしょ?」

「夕べ、うちの母ちゃんがその事件について詳しく教えてくれたんだ。今言ったのは加害者が裁判所で、裁判官に向かいながら、言ったとされる言葉だ。加害者の男は、事件後、なかなか自分を死刑にしてくれない裁判官に対して、出来ることなら、六ヶ月以内よりもっと早い死刑確定を望んでこう言ったんだとさ。結局、男は希望どおり死刑になったけど、遺族に最後まで、謝罪の言葉なく死んでいったらしい。」

「へえ〜最悪なひどい話ね。児童を殺すだけ殺しておいて後は、死刑にでもなって、[はい、さよなら]ってわけね。すごく自分勝手。」

「全くだ。」

「さみしいね。」

僕たちのやりとりを聞いていた和樹がポツリ呟く。

「この人には、愛するとか、愛されるという感情がなかったのかな?」

「いや、ないということはなかったと思う。ただそれを、活用できなかったんじゃないか?」

「多分そうね。早く死刑を希望するってことは。自分は、この社会から必要とされていないと感じていたのよ。」

「蝉でもこの世の中に短い命を全うしてしっかりと生きてんだ。しっかり生きて自分の罪を償えってんだ。こいつは、弱い奴だ。世の中が悪いだの社会が悪いだのと言って、周りのせいにして自分が一番悪いにも関わらず反対に考え自分を一番美化していたんだからな。自分自身に負けた弱虫さ。」

「・・・」

歩美も和樹も黙っている。

「歩美、もしおまえの母親が、連続殺人犯だとしたら、おまえだったら、どうする?」

「そんなの、ないない。絶対。あのゴキブリ一つ殺せない人に。」

「まあ、それもそうだな。おまえんちの母親、そしてお前、臆病だもんな。ただなあ〜夜に、うるせえんだよ。隣の俺んちまで、丸聞こえなんだよ。ゴキブリィーーって。

それが聞こえる度に俺んちの男連中は、お前んちでゴキブリバスターやらされるはめになるんだからな・・・」

「頼りにしてます。若旦那。」

「勝手に旦那にするな。旦那に。まったくお前なあ〜調子いいんだよ。」

僕たち三人は、その場で、大声で笑い合った。

「よし、あともう少し頑張るか。」

あと五十段。そうしたら、もうすぐ、二百段である。

「私にとってお母さんは必要なの。どんなことが起ころうと私は家庭を大切にしたい。お父さん、お姉ちゃん死んじゃったから・・・」

歩美が、どさくさに紛れてポツリそう呟いた。僕たちは腰を上げた瞬間だったので聞こえなかった事を装った。ここだけの話し、それを聞いた瞬間、僕は思わず泣きそうになった。歩美の胸中には、父親と姉の敦子の面影が、常に現存していると思ったからだ。

歩美の母親は、女手一つで敦子と歩美を育ててきた。歩美の母親の苦労は並大抵のものでは無かったと思う。現在、電子部品を作る会社に派遣社員として働き生計を立てているようである。でもかなりきついと思う。もっと時給のいい働き口は無いか?もっと安定した仕事はないか?周りの人に聞いているらしい。でも思うような仕事が見つかるはずもなく、常日頃から爪に火を灯す生活を強いられていると僕は聞いていた。

いつだったか、夜中にトイレに起きた時、隣の歩美の家は、深夜だというのに、明かりがこうこうと灯り、歩美の母親が、編み物しているのを、僕は自分の部屋からよくみたものである。自分の娘に対する歩美の母親が出来る最大の愛情表現だったに違いない。歩美のセーターでも編んでいたのであろうか?それから程なくして、歩美がセーターを大切に着こみ、僕の前に現れた時があったからだ。あらゆるものに慎ましくしている歩美と歩美の母親の姿をよく知っている。だから、今の歩美の言葉は、痛いほど僕には、伝わってきた。

僕は、ふとこの前、担任の野田先生が言っていた言葉を、思い出した。

「あなた達は、この世では、決して一人ではないのよ。みんな、依存し合って生きているの。たとえば、今、着ているあなた達の服。その服だって、あなた達が、今、着るまでに多くの人の手が掛かって製作されているの。裁断する人。裁縫する人・・・このように、愛があって作られた服を着て、ズボンを穿き、くつを履いている。この先、もし死にたいと思うようなことがあったのなら、それは、あなた達の身勝手というものなのよ。あなた達は、決して一人じゃない。だから、この先、決して死にたいなんて言わないで。」

新聞紙上を、以前、自殺サイトによる自殺者急増を報じたことがあった時に、野田先生が教室で言った言葉である。

歩美は一人っ子になってしまったということと、片親しかいないということが重くハンデとしてこの社会にのしかかっていることは僕にもわかる。

歩美が自分の母親を、歩美の母親が自分の娘を、お互いどれほど大切にしているかが、痛いほどわかるだけに、歩美には、大切に生きて貰いたいのである。

二百段登りきった階段の両側には石灯籠が立ち並び、僕たちに[ご苦労さん]と言って労をねぎらっているみたいだった。僕たちは、かなり汗びっしょりになっていた。

Tシャツが肌にベットリ張り付いて、気持ち悪かったので、僕と和樹は、早速、上半身裸になった。登るまでの間というものは、地獄そのものだが、一端登ってしまった暁には、ここは、僕たちにとって、最高の別天地になっていた。こんな暑い最中、ここまで来ようと企てるのは、僕たち位しかいないと判っていたので、到着したら天国になるのは、軽く想像が出来た。何よりも、僕たちだけの貸切がうれしかったのである。僕達は早速キャッチボールを始めた。

ところがだ。五分後、せっかく登り詰めたこの神社が、ただのくたびれ損になってしまうことになる。またもやあの男が現われ、その場の雰囲気がぶち壊しになってしまったのだ。

「いやあ〜暑いねえ〜」

男はハンカチ片手に、ダークグリーンのスーツを着て現れた。

「キャッチボールやっているんでしょ。おじさんも、一緒にやらせてくれないかな?」

僕はキャッチボールを止めて男を鋭く睨みつけた。

「僕たちを、つけてきたんですね。」

「う、うん・・・」

「目的は、何ですか?」

「目的?目的はキャッチボール。」

「嘘だ。」

「嘘じゃないよ。」

「僕たちを、誘拐でもするんですか?」

「誘拐?するわけないじゃない。大丈夫だよ。絶対、誘拐なんてしないから。」

僕は、じぃっと男を睨み続け黙っていた。

「わかった。わかった。そこまで疑われても仕方ないね。第一、君達からしたら何処の、どういう奴かも判らないからね。おじさんが、もし君たちの立場だったら、全く同じ事をすると思う。提案がある。今日、おじさんは、何もしない。そのかわり、君たちがキャッチボールするのを、近くで見させてくれないか?決して邪魔したりしないから。」

「承君、邪魔しないって言ってるんだから。見させてあげましょうよ。」

歩美が僕の同意を求めるように言った。

「まあ、いいんじゃないの?兄ちゃん。そばで見させてあげても。別に減るもんでもないんだし。」

和樹が男を気遣いながら言っている。昨日、ブロックチョコレート貰ったお礼か?お調子者め。

「たのむ。お願いする。」

男が懇願するように頼んでいる。まるで僕はこの中で一番怖い人みたいな扱いである。

「わかりました。一切、僕たちの邪魔しない。口出ししない。それが、守りきれるなら、見てもいいですよ。」

僕はしばらく考えて渋々答えた。

「ありがとう。」

男はそれを聞いて酷く喜んだ。

僕は、動作自体をとてもきびきびしたものに変化させ、ポーカーフェイスを守り抜き、歩美、和樹とキャッチボールをした。というより演じた。

なんて奴だ。あれだけの石段を上がってきて、さらに僕たちとキャッチボールがしたいだのと、たわけた事を要求している。

男は僕に言われたまま、馬鹿正直に近くで僕たちのキャッチボールを楽しそうに見つめつづけている。

僕はただひたすらテキパキとこなし、早く終わらせることだけを念頭にいれていた。自分でも、内心こんな自分は嫌いだった。でも、僕自身の内にある負けん気の強さと変にまじめな所が二つ鬩ぎあいそうさせていたのだ。そんな時である。

「優しいんだね。承君。」

それまでじっと黙ってキャッチボールを見つめていた男がポツリ呟いた。

「えっ?」

僕が聞き返す。

「蝉の墓・・・」

男が静かに応え、行きかうボールの行く方を、目でしっかり追っている。

蝉って、まさか・・・

僕は事情がつかめると男に向け叫んだ。

「勝手に人のやっている事、見ないで下さい。これじゃあ、ストーカーじゃないですか。今度、僕たちを影で見ているような事があったら警察に訴えますよ。」

男は、さっき僕たちがしていた事を影から、そっと見ていたんだ。僕は、それが許せなかった。

「ごめん・・・」

男は僕の剣幕に驚いてただジッと僕を見て目をパチクリしている。こんなに僕が怒るとは予想もしていなかったらしい。

「歩美、和樹行くぞ。」

いきなりの僕の言葉に歩美も、和樹もあっけにとられている。

「何?もう終わっちゃうの?さっき、来たところじゃない。」

男が尋ねてきた。

「ここは、とても暑いんです。このままやっていると、熱射病になっちゃうし、もうそろそろ帰らないと。それに僕たち用事があるので。」

この前同様、またも嘘をついてしまった。実は、用事なんて何もないのである。明らかに自分でもムキになっているのがわかる。

「そうか。わかった。楽しかったよ。キャッチボール見させてくれて、どうもありがとう。はい。これ。」

と言いながら、男は紙袋を差し出した。その紙袋の中には、三本の冷たいサイダーが入っていた。

それを見た瞬間、思わずゴクリと喉が鳴った。

「いえ、結構です。」

僕は、抑揚のない低い声で断った。

「兄ちゃん、貰っとこうよぉ〜」

燦燦と降り注ぐ灼熱の太陽を睨み返しながら和樹の顰め面が僕に祈るように言う。

「そうだよ。熱中症になっちゃうぞ。」

男が執拗に首をハンカチで拭きつつ言う。

「ちょうどいいじゃない。わたし達ここに来るまで何も飲まなかったし、飲み物買う事、忘れていたし。承君も、さっき言ってたじゃないの?何か飲み物ほしいって。」

歩美が暑さでフーフーしながら言っている。皆全員とても暑そうである。

僕は、歩美が言った言葉に少しうろたえたが、

「いえ、知らない人からは、何も貰いたくないので。」

男にそう言うと僕は踵を返して帰ろうとした。それを見ていた歩美が素早く和樹の元に走り寄り何やら二人でヒソヒソ話をしている。それが終わると二人が僕に向かい大声で叫んだ。

「喉渇いたぁ〜。アメ、ユジュ、トテチテケンジャ〜」

ん?どこかで聞いた事あるようなこのフレーズ。何だっけ?僕はそう考えていると、それを聞いていた男が爆笑して二人に言う。

「はっはっは。宮沢賢治か。すごいな。ナカナカやるもんだ。君達、頭いいんだね。これは参った。はっはっは。」

男は、このフレーズがかなり気に入ったらしく体を揺らしながら笑い続けている。

「とにかく何も要りませんから。僕たち全然、喉渇いていないし。貰っても迷惑だし。」

僕は半分、ムキになり、楽しそうに笑っている男に冷たく言い放つ。

「そう?残念だな。」

男は断られて困ったといわんばかりの顔になっている。

僕は構わずクルリと素早く向きを変え二、三歩進んだ。

そして、後ろをみると、男が和樹に紙袋を渡そうとしているのが目についた。

「和樹ぃ。何やってんだ!」

僕は、大声で怒鳴っていた。

和樹は、びっくりして、その場にサイダーの入った紙袋ごと地面に落としてしまった。

「えっ〜?何でぇ〜?貰っとけばいいじゃないか?兄ちゃん。」

呆れたような顔をして見せ、しぶしぶ文句を言いながら僕の元に走り寄ってきた。

「いくぞ。歩美も。早くこっち来い。」

「何も、そこまで意固地にならなくてもいいじゃない。」

手で顔を仰ぎながら、歩美も一つ大きなため息をついて走りよってきた。

男は、和樹の落とした紙袋を拾い上げ、脇に持ったまま石灯籠にもたれかかり階段の上から、僕たちの帰るところを、ただじぃっと寂しそうな顔で見送りながらいつまでもその場に、たたずんでいるのだった。

「何なんだ?あのおっさん。気持ち悪い。一体何が目的なんだ?」

僕はプリプリしながら言う。僕たちは自転車に乗って帰路の途中。僕のサドルの無い自転車に往復で乗らされた事に和樹もプリプリである。

「本当にキャッチボールがしたいのよ。」

荷台に横座りしている歩美が言う。

「おかしいだろ?それ。どう考えたって。二百段だぞ。二百段。俺たちでさえヒーヒー言ってるのに。まともな奴の考えることではない。どうかしてる。二百段登ってきたあげくにキャッチボールか?」

「そうよ。本当にキャッチボールがしたいのよ。誰だって秘密というものはあるでしょ?あのおじさんも秘密にするべきものがあって、それが、そうさせているのかもしれないじゃない?私だってそうよ。いつもいつもこうやってあなた達と遊んでいるけど、秘密にしているものだって結構あるのよ。」

「たとえば?」

「そんなの言える訳ないじゃない。」

「何だ?今日、あの日か?」

「兄ちゃん、あの日って何?」

しまった。聞いていないと思われた和樹が、僕たちの会話をしっかり聞いていたのだ。立ち漕ぎしている和樹には、自転車に乗っている事に気をとられて、とても僕たちの会話なんて聞こえていないと僕は高をくくっていたのである。

「和樹、子供は知らなくてよろしい。」

「もぉ〜。承君。下品。」

「わりい。わりい。」

僕たちは信号のある交差点に、ひっかかり一旦立ち止まった。

「もういい加減。サドル買わないとね。和樹君、かわいそう。」

歩美が疲れてゼェーゼェー息をきらしている和樹を見ながら言う。

「いいよ。いいよ。こいつは。こんなんで。」

「何だよ。はぁ。兄ちゃん。その言い方。はぁ。この自転車、兄ちゃんのなんだからね。」

「和樹。社会勉強。社会勉強。」

歩美が、それを聞いてクスッと笑う。

「歩美姉ちゃん、今の言葉聞いた?はぁ。最悪なアニキ。いつもそう言って逃げるんだよ。兄ちゃん、もういい加減、僕の自転車と交換してよ。はぁ。僕は石段を二百段上り下りした挙句、往復で兄ちゃんの自転車乗らされてるんだよ。僕、太ももがプルプルしてきたよ。」

信号が青に変わり、僕は和樹の言葉に聞こえないフリをして急いで前進する。

「逃げろぉ〜」

僕は途中で大声を出し全速力でペダルを狂ったように漕ぎまくる。そして和樹を引き離す。

「はぁ。はぁ。まてぇ〜はぁ。」

段々と遠く離れゆく和樹の弱った声。僕達は、かなり和樹を引き離してしまった事に愉快に笑い合う。自転車の振動に乗って歩美の長い髪が清爽に靡いている。僕たちは盛夏漂う森を抜け、遮断機の無い踏み切りに差し掛かり交差する線路をダンッダンッダンッと音を立てながら横断する。一瞬、横目で側に花束がひっそりと手向けてあるのに目がいってしまう。僕は急いで線路を渡りきる。やがてしばらくすると歩美は黙り込み、何かを考えているようにしていたが、独り呟くように僕に次の事を言う。

「今の所なのよね。お姉ちゃんが死んだの・・・」

一瞬、僕たちの間に重たい空気が張り詰める。実は僕も、踏み切りを渡る時、歩美が思い出すのではないかと、心配していたんだ。僕は、尚もかき消すように急いでペダルを踏む。

僕は、よく思い出すのだが敦子姉ちゃんって人は、ここにいる歩美より一段と増して綺麗な人だった。そりゃあ、僕達よりも年が上の事もあるが、それでも年よりも、はるかに大人びた雰囲気を持っていたと僕は思っている。八頭身で実に均整のとれたプロポーションを持っていたのが印象的だった。僕は敦子姉ちゃんの夢はモデルになる事だと聞いた事があった。確かに誰が見ても納得のいく容姿を持っていた。歩美も、そんな姉の綺麗な姿に憧れていたし、僕達と遊ばない時は、決まって姉妹仲良くしていたのを僕は、よく思い出すのである。歩美は、そんな優しくて綺麗な姉がとても尊敬出来る存在だったに違いない。ところが今、あの頃の敦子姉ちゃんは、もういない。

「私が、もし姿を消しちゃったらどうする?」

「そんなこたあねえよ。お前しぶといから・・・はっは。」

歩美の重たい質問に僕はとってつけたような笑いをしながら冗談で切り返す。僕はあまり思い出させたくないのだ。敦子姉ちゃんが死んでまだ悲しみのどん底にいる歩美に・・・

ふと歩美の顔を見る。一緒に笑うどころか真剣な顔をしている。何か悲しそう・・・

「どうした?そうなのか?」

しばらく歩美は僕の問いに答えない。僕は心配になり自転車を止める。

「おい。歩美。」

僕がそう言うと突然、歩美は笑い顔になり、こう言った。

「うっそぉ〜。な〜んちゃって。私がこうなったら承君、どういう顔するかなって思って。」

「お前、びっくりさせんじゃねえよ。今日のお前。何か変。」

僕はドギマギしながら歩美に言ってのける。やがて真っ赤に顔を紅潮させた和樹が合流し僕たちは帰宅したのであった。でもその時の歩美の顔を僕は忘れない。帰宅途中でギュッと僕の体を抱きしめこう言ったのだ。

「このまま時間が止まればいいのに。」

「・・・」

僕はどう受け答えしたらいいか迷っていると

「ずっと私のそばにいてね。」

歩美は小さく呟いたのだった。

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