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高速道路の上を横断する高架でモクモクと立ち昇る黒煙を見ながら携帯電話で話しかけている一人の男。

「もしもし、兄貴。あっしです。運転手とガキ達は今、あっしが始末しました。大丈夫ですよ。間違えてませんよ。あの会社のトラックは五百m先からでも、よ〜目立ちますから。はい。はい。そうですね。完璧です。ダメ押しで、あっしの五十m先でトラックごと炎上しておりやす。よう燃えとりますわ。ありゃ命は、絶対ありませんぜ。はい、それはもう大丈夫です。兄貴の足がつくことは絶対にありません。まずは、第一関門突破ですね。へっへっ。あとはアイツをうまく始末するだけですね。はい。はい。わかりました。ありがとうございます。じゃあ、今から日間賀に向かいますんで。はい。はい。じゃあ、失礼します。」

男は、そう言うとポケットに携帯電話をしまいこんだ。

もう一度、事故現場へと目を向ける。にやりと笑った奥歯には、きらりと光った金歯が顔をのぞかせて不気味さを漂わせていた。

僕たちは、日間賀島へ向かう高速船にのっていた。

和樹と二人、甲板に立ち海を見ていた。

事故を思い浮かべながらトラックの運ちゃん、植村さんを思い合掌してみる。

涙が頬を伝い、流れ落ちる。

弟の復讐を思い、今日まで生きていたのが何だったのだろう?さぞ無念に違いない。

隣りで一緒になって合掌している和樹をそっと見てみる。

もし僕があの植村さんだったとして、同じように弟であるこの和樹が亡くなったとしたら?

いや、駄目だ。とても考えたくない。見境もなく荒れ狂うだろう。

植村さんを銃撃した奴はいったい誰なんだ?あの高架にいた男。車内から僕は確かに見た。

あの男が、植村さんのこめかみを狙ったんだ・・・でもなぜ?駄目だ。全くわからない。

それにしても僕たちは、本当に生きていてよかった。よく助かったものだ。

奇跡的に近い形で運良く助かったといえる。

あの時、確かにトラックの車内では、とんでもない事が起こっていた。

時速百五十kmで走行していたトラックは銃撃を受け幾分減速した。そして左へ進路をとったかと思うと左にあったガードレールに物凄い勢いでぶちあたった。

「あぶないぃ。」

ガシャーン!

僕たちはシートベルトをしていなかったこと。銃弾が当たったことにより、荒れ狂う風圧で、フロントガラス全体が、バリバリに割られて跡形もなく無かったこと。植村さんを避けるため素早く僕達は座席に前かがみになりながら立ち上がっていたこと。左のガードレールにトラックが、ちょうど斜め前から猛スピードで突っ込んでいたこと。この四つが、幸をそうして僕たちは奇跡的に助かったのである。このうちのどれが欠けていてもきっと駄目だった。

もしフロントガラスが割れずに残っていて座席から前かがみの状態で頭を強打していたら、あの猛スピードでは、たぶん僕たちは首の骨を折っていたと思う。そして折れた所が首の上の骨だったら大変な事になっていた。例えばハングマン骨折・・・そうその名の由来は絞首刑される囚人にこの骨折が多いからその名が付いたとされる。首の骨が過伸展つまり思い切り首を後ろに反る事により骨折が発生するのである。息が出来なくなるどころか僕たちは、とっくにお陀仏になっていた所である。想像するだけでも、背筋を凍らせる。

ガードレールに当たった瞬間、僕たちはフロントガラスのあった所から車外に放り出された。勢いも手伝って押し出されたとか弾き飛ばされたと言った方がいいのかもしれない。間一髪、これ以外考えられない最良の落下地点に僕たちは、落下していた。もしこれがコンクリートの硬い所だったら、僕たちは確実に助かっていなかっただろう。おそらくここでも全身打撲でお陀仏だった。不幸中の幸いとは、よくいったものである。車外に放り出された僕たちはガードレールを飛び越え、空中で一回転し側溝よりさらに下にある砂だけで形成された砂場のような傾斜面に足からスライディングしていたのである。

今回のこのケースではまさに僕たち二人は砂場で起こったことだが、まるでパンにバターを塗るかのように砂場に対してスライディングが上手く決まっていた。それも命を守ってくれたに過ぎない。

一つは、緩衝剤となった砂場がそこに存在していたこと。もう一つは、砂場と体を絶妙な角度で平行にスライディングしていったこと。この二つが上手く重なったことが、幸いして僕たちは信じられないくらいに無傷だったといえる。いくつもの状況が全て重なり合い神は僕たちを生還の道へと導いてくれた訳だ。

その後、落下の衝撃で僕たちは、その場で意識を失ってしまった。

あれからトラックは右斜め前に前進しながらの酩酊走行。そして横転。後続車の衝突。炎上。その後二、三台が尚も玉突き衝突していた。

もうどれくらいの時間が経ったのだろう?

いや、そう時間が経っていないのかもしれない。物凄い爆音によって僕は目覚めた。

ここは、一体どこなんだ?場所を示す看板を探してみる。愛知県。そうか、やっぱりここは愛知県だったんだ。あ〜疲れた。ようやく辿り着いた愛知県。苦労して辿り着いた愛知県。初めて足を踏み入れる愛知県。手荒な歓迎ぶりを受けたが、大惨事を免れたことが、何よりも僕たちの到着を歓迎している証となった。

周りの状況は?こんな大惨事にも拘わらず、僕は妙に冷静になっていた。

早くこの砂場から逃げないといけない。と考えたからである。

隣りで気を失っている和樹を揺り動かして目覚めさせる。至って健康そのものだ。

事故現場は、今、どういった大惨事になっているのだろう?

傾斜面に設けられた砂場であったため、事故現場を知ることがとても困難である。

何とか事故現場を確認しなくては・・・砂場の傾斜面を頑張って上がってみる。

その状況が目前に現れる。思わずギョッとなる。おぞましい程の惨劇。あまりの惨事に愕然となる。死のオブジェは目前五mの所で生々しく繰り広げられていた。十数台と思われる車がグシャグシャになりミニカーのように転がっている。黒煙が空高く立ち上り火柱が数箇所であがっている。散乱した肉片、血の海。

想像も出来ない恐ろしいほどの熱気が辺り一面を揺さぶり溶かし始める。

黒こげになり木炭と化した死体。呻き声が重奏低音のように道路を覆い、漏れ出した重油の間から焼け爛れた人がソロリソロリと力無く体躯を動かしている。その前には、ぬらりとした血の帯が広がりレッドカーペットを渡って来いと僕をエスコートでもしているように目に写る。痛さで、のたうちまわる人。ぐったりとなり車内で意識朦朧となっている人。

車外に放り出され全身火だるまでピクリとも動かない人。

あの中に、さっきまで隣りで運転していた植村さんの姿があるのだろうか?

その答えを見い出せることが出来ないでいる事に次第に気持ちが落胆していきそうになる。

ふと高架が気になり男がいないか?確認してみる。誰もいない。

難を免れた後続車から降りてきた人が、携帯電話で電話しているのが見て取れる。

もうこれ以上、見る事自体、気持ちが続きそうにない。

どうやら、この事故から僕たちは完全に蚊帳の外だった。

トラックに同乗者がいたということ自体、知られていないことになっている。

「和樹。いくぞ。」

振り向きざま、和樹に向かい、僕はそう言っていた。

「えっ?兄ちゃん、ここにいなくていいの?」

「後続の車から降りてきた人が、今、電話してる。もう間もなく救急車が来るだろう。俺達に、今、足止めされている時間は無いんだ。ここで警察に事情聴取させられてみろ。苦労してここまで来たのに、また栃木県に返させられてしまうじゃないか?とにかく今の俺たちには前へ前へと進むしかないんだよ。それにグズグズしていると植村さんを銃撃した犯人が狙いに来るかもしれないぞ。」

「え〜っ。こわい〜僕、ねらわれちゃう〜」

和樹は身を、くねらせてオカマチックに応える。

「こんな時に、ふざけてる場合か?いいから早く来い。おいていくぞ。」

「兄ちゃん、待って。」

よくこんな時に、ふざける事ができるもんだ。格段にこいつの度胸は僕の上をいってる。

そして僕たちは、砂場の傾斜面から高速道路を下りて普通の一般道に出たのである。

ヒッチハイク。

この言葉に僕は最初、踏み出しにくい距離感を感じていた。

人に頼って事を成立させるのだが、その反面、人の気持ちを、もて遊んでいるイメージが付きまとうし、その反面、ほんのちょっと恥ずかしいという立場に立たされていることから、実践するにおいても身構えなければいけないという勝手な感覚があった。だが、実際に行動に移してみると、考えていた敷居の高さのようなものは、これっぽっちも感じなくなり度胸でやろうとすると、なかなか奥深く面白いものであるということが実感となって残ったのである。

無鉄砲。破天荒。異端児。どれもこれも抜きに出たハチャメチャぶりを示すものであるが、僕はこれらの言葉たちが大変好きだ。ヒッチハイクとは、ちょっと意味合いが違うにしても度胸のもとに、これら一緒くたにくくろうと思えばくくれるわけで、ホップステップジャンプのホップの段階に立っている自分が何だかうれしくて仕方がないのである。現代の若者は、外で遊ばず家の中にいてゴソゴソやっていると言われるが、自分だけは、その枠外に居られることが何とも嬉しい。野田先生は、これを言っていたのかもしれない。ヴォンベレスダイブ。親指を立てながらやってみると何だか自分に力が漲ってくるのがわかる。和樹も、なかなかいい言葉を僕に言ってくれたものだ。

とにかく度胸一つでやってみなよ。ってか。気に入った。いい言葉である。この言葉も僕の好きな言葉に入れようと思う。

素潜りになってもいい。海女さんになってもいい。無鉄砲でもいいから海に入り、さざえだの、あわびだのといったものを手中に入れて戻ってきてみせる。取れなかったらそれでいい。それが人生における経験値に繋がるというならば大いにありがたい。別に海女さんが無鉄砲だと言っているわけではないが・・・

そんなこんなで僕たちは日間賀島へ出港する港まで二度目のヒッチハイクをしながらやってきたという経緯があったのである。栃木を出発してからすでに半日くらいが経過していた。思えばよくここまで辿り着けたもんである。

高速船から望む波はとても穏やかで、水面は宝石のようにキラキラと輝いていた。一羽の海鳥が高速船の上を旋回している。突然、スッと海へダイブしたかと思ったら、魚をくわえ遠くへ飛び去っていった。鳥がダイブするなんて。きっと綺麗な海なんだろう。それを見た僕たちは、この濁りない透き通った海の中へダイブしたい衝動へかられたのである。周りを取り巻くスローテンポの状況に、僕たちは潮風によって嗅覚を刺激され、潮騒を聞きながらゆっくりと落ち着いた雰囲気に身を任せていたのである。

「君達、ひょっとして栃木県の公園で、おじさんと会わなかったかい?」

突然、声を掛けられ僕たちは後ろを振り向いた。そこには一人の男が立っていたのである。

「おじさん。たしか・・・」

「やっぱりそうか。どっかで見たことあるな?と思ってずっと考えていたんだ。もしかしてと思い、声をかけた。おじさんは栃木県警捜査第一課の・・・。」

「片桐さんでしょ。おじさん。どうしてここにいるの?」

「ちょっとね。調べたいことがあったんでね。君達こそ、どうしてここにいるんだ?」

「僕たちも、ちょっとね。」

「何だよ?教えてくれよ。」

「おじさんだって言わないじゃないか。」

「それはだな。あくまでも仕事に関することだから、公にはできないんだ。」

「兄ちゃん。ちゃんと言ってやろうよ。僕たちは、歩美姉ちゃんに会いにきたんだと。」

「えっ?そうか?そうだったのか。」

「うん。そうだよ。」

「そうか・・・」

刑事は、和樹の言った言葉を聞いた途端、悲しそうに目を伏せていた。

それからの僕たちと片桐刑事の駆け引きは、日間賀島に着くまでの間、お互いを牽制しあっての乗船となった。刑事に僕たちは今から歩美に会いに行くと言った事により謎の男に会う事は二の次になり、歩美に会う事が、まず最初の予定となってしまったのである。

港に着くと大きな蛸のモニュメントが僕たちを出迎えてくれた。その前では、観光客が入れ替わり立ち替わり記念撮影を撮っている。

近くにあった島内地図を見てみる。人口約二千人。三河湾と伊勢湾に囲まれ、

ふぐ、蛸などの海の幸の宝庫として知られる島。知多半島の沖合い二.四kmに浮かぶ全周六kmの島。愛知県内にある島の中では、佐久島、篠島に次いで三番目に大きい島であるが、人口の多さに関しては愛知県内の島の中では一番目に多い島なのである。

坂道を登りしばらく歩くと、僕たちは蛸だのイカだのアジだのを干している所に出ていた。

そこは様々な種類の海産物が天日干しされていた。

「美味しいよぉ〜どうだい?食べてみんかね?まだ出来たばっかの干物だもんだいねえ。」

老婆が、僕たちに話しかけてきた。

「ちょいとお父さん。オイオの干物どうだい?美味しいよ。ほいっよっ、一つ食ってみんかね?」

僕たちを親子と勘違いしているようだ。老婆が刑事に向かい、小さく切ったアジの干物を一つ差し出しながら言っていた。

「ん?オイオ?ああ、魚のことね。じゃあ、遠慮なく一つ貰うかな。」

そう言うと刑事は干物を一つだけつまみ、僕たちは、老婆の言葉に甘えて試食品であるそれぞれ種類の違う干物を全てのべつまくなしに口いっぱいに詰め込み頬張る。

「おいしいぃ〜」

それは口全体に海の味が広がり眠っていた胃袋を活発にさせ食欲を増進させるものだった。

「お父さん、もっとどうだね?もう一つ。」

「いや、もういいんだ。ばあさん。ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだが、金子 望さんってこちらに戻っていると聞いたんだが何処に泊まっているか知らないだろうか?」

僕はこの時、初めて刑事も歩美あるいは歩美の母親の事でここに来たんだという事を知る。

「望ちゃんかい?戻ってきんさったんかね?あたしゃ知らんがいね。」

「望ちゃんなら、友達の仲さんところに泊まっとると思うだがのぉう。」

遠くで聞いていた老婆が、僕たちに聞こえるように言った。

「あんたら、望ちゃんに何の用だいね?」

顔に穴があこうかと思うほど、じっと一点を見ていた老婆の態度が急に変わっていた。それは一変して冷静な態度に変わっている。自分の味方を守り抜くといったそんな態度。

「ごめん。ごめん。申し遅れたね。ほんと申し訳ない。私は、こういうもんだが。」

そういいながら、刑事は、警察手帳を見せていた。

「えぇ〜?警察の人かい?」

老婆は、驚愕して顔色を変えた。同時に周りで干物を売っていた老婆たち全員が、その刑事に焦点を合わせていた。こんなこと産まれて初めてだよ。といわんばかりの顔をしている。刑事は、注目の的になっていた。

「仲さんはな。仲村さんというてな。ここを真っ直ぐに行った神社の隣りの家だいね。」

明らかに、よそ者に話すという落ち着いた物言いで老婆は淡々と言い放った。

僕たちも、敵がきた。と言わんばかりの目つきで見られていた。

「どうだ?坊たち、うめえだら?」

一人の老婆が干物をムシャムシャ食べている僕に向かい何か言ってきたのだった。[ん?うめえだら?]僕は、老婆が何の事を言っているのか判らず困っていると刑事が助け舟を出してくれた。

「この辺の人はね。じゃん、だら、りんと言って、語尾にそれらの言葉をつけるのが、ここの方言、三河弁なんだ。つまり、ばあさんは、美味しいかい?と君に聞いているんだよ。」

そう言うと刑事は老婆に向けこう言った。

「ばあさん、ごめんよ。この子達は、遠く栃木県から来た子達だからね。」

「はい、美味しいです。」

僕は、ようやく言葉の意味が掴めると老婆に向かい言っていた。

その時、僕は、老婆と目がしっかりあう形となる。探るような老婆のするどい目。何だか見られているだけで、とても緊張する。

「栃木県?・・・あっ!」

と老婆が言ったかと思った次の瞬間、老婆の突き刺さるほどの視線が、まじまじと僕と和樹を捉えて目の大きさが二、三倍になったかと思うと丸々とした大きい目になっていった。

「あんたら、ひょっとかしたら、栃木県居るっちゅう杉先生とこの子供さんたちじゃないかえ?その目元、口元、杉先生にそっくりじゃ。」

老婆は、驚きのあまり思わぬ事態に喫驚していた。それを聞いていた周りを取り囲んでいた同業者の老婆たちの間が急にザワザワざわめき出していた。

「杉先生んとこの子達がこの日間賀にきてくれたがや。うれしいなや。」

老婆たちは、全員喜んで声を弾ませている。

「こりゃあ杉先生に報告せんといかんな。杉先生、跳んで喜ぶじゃろうて。今日は宴会じゃ。宴会じゃ。」

まるで老婆たちは自分のことのように喜んでいた。

しばらくしてそんな老婆たちの喜ぶ姿を尻目に僕たちは、金子望の友達である仲村なる人物の家に向かい歩いていた。

その前に。ちょっと待ってくれよ。僕は何が何だか、さっぱり分からなくなっていた。よく整理して考えてみる。

杉先生?あの杉山って男のことだろうか?第一、僕たちは、栃木県に家があるんだし、ちゃんと父ちゃんもいる。いったいあの老婆たちは、何を訳の判らないこと言っているんだ?それと、もう一つ。刑事は、老婆に金子 望、つまり歩美の母親の名前を出して、まるで歩美たちが以前ここに住んでいたというような感じで老婆達に尋ねていた。歩美は、ここに旅行に来ているんじゃなかったのか?

別人?いや、そんなことはないと思う。じゃあ、本当に金子望なる人物が、歩美の母親であるとして、ということは・・・

「ねえ、刑事さん。金子望って、歩美の母親だよね?」

「ああそうだよ。何だよ。急に。」

「ってことはだよ。歩美も歩美の母親も、以前ここの住人だったってこと?」

「ああそうだよ。何だ。知らなかったのか?」

歩美がどこかから越してきたことは僕は知っていたが、まさかここから来たとは知らなかったし、初耳だった。

だったら、何でこの前の電話のときに歩美本人が僕に言ってくれなかったのか?

僕たちは、突然知り得た事実にあっけに取られていた。

ちくしょ〜あいつ・・・何で俺に、よそよそしく隠し事なんかしてんだよ・・・

僕たちは島の中道を通り、学校の前を通りぬけ坂を下った。海岸線が見える所に出ていた。

午後二時。容赦なく太陽が僕たちを照らしていた。

真っ青な空。真っ青な海。沖の海はキラキラと輝き、まるで銀色に光り輝く宝石が散りばめられ、その手前にはお椀をひっくり返したような島が、ひょっこり浮かんでいた。

しばらく歩いていくと曹洞宗の禅寺があり、さらに先に行った所に神社があった。

神社の周りでは、木陰に座りながら、老人四人が話しこんでいた。

その隣りには一件のひなびた家が、ひっそりと建っていた。

表札を見てみる。仲村と書かれてあった。多分、歩美と歩美の母親が滞在している所はここだという線が強い。

呼び鈴らしきものはないか?門の周りを探してみる。

見つからない。勝手に中に入っていいものか?どうか考えあぐねていた。

「その家は、あたしのじゃが。おめえさん達、誰だね?」

神社の方から甲高いしゃがれ声が聞こえる。見ると家と神社との間に小さな畑が出来ており声はそこから聞こえていた。年にして八十歳くらいだろうか?一人の老婆がこちらを向いて立っているのがわかる。

刑事は身分を明かすと老婆は、家に戻りそんな僕たちを縁側に通してくれたのだった。

「さっきまで望ちゃんは、ここにいたんだがの?どこにいったんかいねぇ〜?ほんに可哀相な子じゃよ。島一番のおしどり夫婦とあたしらでも呼んでいたほどなのによ〜。何せ、あんな事故じゃろ?」

老婆は僕たち一人一人にお茶を出しながらそう言った。

「えっ?何だい?くわしく教えてくれないかい?」

刑事が興味深けに身を乗り出している。

「何だ?おめえさん。知らねえのか?あれはそうだいなあ〜今から三年も前になるかいなあ〜、旦那だった武治を船の事故で亡くしたってことさぁね。島で一番腕がいいと噂されたあの武治が船の事故で亡くなるんじゃからの。運命ってわからんもんじゃ。なんでもよ、あたしらにゃ想像も出来ん事故だったらしいがいね。」

「想像出来ん事故って?」

「なんでも武治が漁に行って死んだ日は雲一つない晴天でシケのねえ穏やかな落ち着いた日だったという事らしいがいね。それがよお。沖からそう遠くねえ所で船ごと燃えとったって話しじゃ。あたしゃ、今でも信じられねえだ。あの腕のいい武治が船の事故で死ぬなんてこたぁあり得ねえ事だと思っとる。あたしらは、今でも仲間同士でも言うとるんじゃ。武治は狐につままれたんじゃねえかと。そこでよっぽどのことがあったんじゃねえかと。」

僕は歩美の父親を仏壇近くの遺影の写真でしか見たことがなかった。

うん。確かに老婆の言うのも最もだ。写真に写っていたその男性はまさに骨太でこんがりと小麦色に日焼けして海の男そのまんまという感じであった。どんな嵐の日でも彼だけは生きて生還しそうなそんな力強さがあったのだ。

「ところで刑事さんたち。今日は何しにみえたんだいね?この島に一体何の用だいね?」

「ああ。ちょっと、栃木で起こった殺人事件でね。」

「へえ?殺人事件?そんな事件があっただかね?あいや〜それは何とも怖い話だいねえ〜。

最近そげな事件がほんに多いのぉ〜あたしゃ、この島に八十年間住んどるけども十年前にそげな怖い事件が一度だけあったきりそれ以外、聞いた事も見た事もなかっただいね。」

「十年前?」

「そんだ。この島に六十歳くれぇの身元不明の男の死体が漂着してきたそうじゃ。聞いた話じゃが心臓を一突きされとったらしいんじゃがな。まだ犯人が捕まってないみたいでよ。なんともまあ〜怖い話だぁ。」

「なるほどね。そんな話があったんだね。とても参考になったよ。」

刑事はお婆さんの話が終わったところで腕時計をチラッと見る。色々用事があるようだ。

「承君、和樹君。そろそろ行こうか。ばあさん。短い時間だったけど、どうもありがとう。もうご無礼するよ。色々聞いてすまなかったね。お茶ごちそうさん。美味しかったよ。」

「お婆さん。お茶、ごちそうさま。美味しかった。」

「そうだらぁ〜。またきんさい。いいか?坊達。ここは海の幸は何でも採れるで、沢山食べときんさいよ。でも坊達、さっきから見とるけど誰かに似とるのぉう〜?」

僕たちは、老婆に礼を言い、反対に老婆には励まされながら仲村宅を出たのであった。

「刑事さん。歩美たちが何処に行ったかというあてはあるの?」

「ない。」

外に出た僕は刑事に秘策でもあるのか?尋ねていた。刑事はすかさず答えた。無い様だ。

「なあに。こんなにも小さい島さ。そう無理せずとも探せるはずさ。」

実に落ち着いたものである。見ると神社の周りでは、さっき来る前に見た老人四人が木陰に座りこんでまだ話しているのが目にとれる。

「どこに行ったか?しらないかな?ここの家の人。」

刑事は、神社の前に座っている老人達に向け大声で叫んでいた。

「海の方と、違うか?潜っとるんやろ?」

そのうちの一人の老婆が近くの海に向け指を指し、言っている。

「ありがとう。ばあさん。今から行ってみるよ。」

刑事は老婆に向かいそう叫ぶと、僕たち三人は、老婆の一人が指を指した海へ向かい歩き出していた。神社から急な階段を降りた所にある前の海岸は海水浴ビーチになっていた。砂浜が続き、南国リゾートという感じで、海水浴客が所狭しとビーチパラソルを立て寝そべっていた。僕たちは、その海岸線を歩いていた。白い砂が、足を入れるたびに、キュ、キュと鳴る。砂浜を服を着たまま歩いているのは僕たち位である。

すれ違う人、それぞれに注意を払いつつ、僕たちは砂浜を歩いて歩美を探していた。

今は夏真っ盛り。さすがに暑い。汗がだらだらと流れてくる。

水着を着て、涼しげに、きゃあきゃあ騒ぐ水着ギャル。それを見ると、僕たちも海で思い切り泳ぎたい心境に駆られる。僕たちは一旦、護岸に戻りその上を歩くことにした。

まだまだ続く海岸線。しばらく歩くと、海の家が見えてきた。

「刑事さん、兄ちゃん、あれ、歩美姉ちゃんじゃないの?」

和樹の指の先には、海に巨大で平らな岩が積み重なったところがあり一箇所だけ、ぽっかりと海面に飛び出ているところがあった。何やら一人の少女が黄色い水着を身に纏い岩場の近くで潜ったり浮いたりを繰り返しシュノーケリングしている姿が確認できる。長い髪ではなくかなりのショートヘアーであったが何気ない仕草から、遠くからでも楽に歩美と判断できた。僕たちは、歩美を脅かしてやろうと海の家まで行き水着とシュノーケルを買って急いで着替えていた。

片桐刑事はというと海の家にどっかりと腰を下ろし、生ビールと枝豆を注文していた。

おいおい、仕事中にかよ。この暑さに、片桐刑事も参ってしまったらしくハンカチで首筋を拭いていたのだが、疲労が蓄積して、さらにとめどなく流れる汗、尋常でない湿度に対処するためハンカチを広げながら頭の上にのせていた。

夏バテしたに違いない。まあ、ビールのことは大目にみてやろう。

海の家は大変な混みようだった。みんな思い思いにくつろぎ、夏休みを満喫しているという感じである。家族づれやらカップルがひしめき合い、人、人、人になっていた。

「刑事さん。歩美のところまで行かないの?」

「ああ。自分はここで、金子さんと君達を待っているよ。泳ぎ終わったら、おじさんがここで待っているから後でくるように、金子さんに言ってくれないかな?」

まあそれもそうである。いいおっさんが何もここに来て裸にならなくてもいい。

「わかった。ここで待っていてね。後でくるから。」

僕達はそう言い、僕は和樹の顔を見た。俯いて元気をなくしている感じ・・・

「じゃあな。存分に泳いでおいで。」

片桐刑事はそういうと軽く手を挙げ挨拶をし配られてきた生ビールをグビグビと飲んでいた。

僕は、久しぶりに海で泳げる待ち遠しさに耐え切れず、砂浜を一目散に走っていた。和樹が、ゆっくりと僕の後からついてくる。

海に向かってダイブ。

砂浜付近の海水は生ぬるかった。砂の粒子が、寄せては返す波のせいで入り混じっている。

しばらく泳ぐと、急に水深が深くなったのがわかる。

それに伴い、水温も段々と低くなってくる。

水中メガネとシュノーケルをして潜ってみる。ダイブ。重たい機材を持たず簡単にやれるところが、何ともいい。これぞ本当のヴォンベレスダイブ。

透明度が幾分、沖のほうにくると増している。

おおお〜〜〜なんと綺麗なことだろう。小さな魚が、ゆったりと自由に、しかも気持ちよく泳いでいるのが、目の前二、三mの距離で展開していた。

海面に頭を出してみる。くじらが塩を吹くようにシュノーケルから息を思い切り吐き出してみる。歩美のところまでは、もうすぐである。

「兄ちゃん。」

突然、和樹の声が、背後から聞こえた。

「ん?何だ?」

「歩美姉ちゃんに会ったらさあ。何があろうと歩美姉ちゃんを、受け入れてやろう。いい?誓えるかい?」

「ん?う、うん、いいよ。何だよ。急に。」

変な奴である。僕たちと歩美は、いとこ同士である。そんな事、あたり前じゃないか。

突然の和樹の申し出に違和感を感じたが、急に僕の中に栃木で起こった殺人事件の記憶が甦ってきた。

「お前、まさか。」

「ん?」

「秘密にしていたことは、それなのか?」

「うん。そうだよ。確かな確証が得られたもんじゃないから、はっきりこの場ではそれが何か言えない。だけどくどい様だけど歩美姉ちゃんが、どういう立場にあろうと僕たちは、素直に受け入れてやろう。わかった?」

「ああ。わかった。」

何だか、そう言われると急にゾクゾクとした胸騒ぎのようなものが浮上してくるのが自分の中でもわかった。

護岸からみた岩の積み重なりは、巨大なものだったが、実際に近くに来て見ると、その超巨大さが、パノラマビューとなって目の前に出現した。それは、一つ一つが、とてつもなく大きな一枚の平らな岩で出来ていて近場で見ているもの達を、圧倒していた。

僕たちは、まずそのジャンボな一枚岩まで泳いでいって、その上によじ登る形で着岩した。

そして歩美が浮上してくるのを、今か今かと待った。

ふと気になり泳いできた方向に目をやってみる。

海の家では、片桐刑事がこちらを見ているのが伺える。まるで監視されているみたいだ。

ところがだ。全然、気に掛けていなかった方向から、同じようにこちらに顔を向けている女性の姿があったのだ。人でごったがえしている海の家ではあったが、明らかに刑事とその女性は、違う場所からそれぞれ、こちらに向け視線を送っているのがわかった。

面白いものである。群衆の中に身を投じているときは、僕たちは見られていても一向に気にならないものであるが、一旦周りとは違う枠外に出て伺ってみると、他とは違う視線があることは一目瞭然でわかった。片桐刑事は、海の家の右のはずれから、その女性は左のはずれから見ているのだった。

さっきから、あの場所にいたんだろうか?その女性は、サングラスをして、こちらをじっと伺っているのだった。なんとも物静かにこちらを見ている所が不気味である。

そんな時である。僕の真横二mくらいのところでシュノーケルの先端から、くじらの塩吹きが起こっていた。

「あれぇ〜?承君じゃないの?和樹君も。いったいどうしたの?」

歩美が、水面に浮上すると僕たちがいることに気づいて真っ先に僕たちに話しかけてきた。

「どうしたもこうしたもねえよ。そのなんだ。あれだよ。お前が、手首をな。こうやっただろ?」

僕は、手首に向け片方の手で横線を引いた。

「それから、会ってねえだろ?心配になって、そのなんだよ。あれだよ。」

お前が心配になって会いにきたんだ。と、ダイレクトに言うというのは、ナカナカ照れ臭いものである。

「何?」

水中メガネをはずし歩美は意地悪く笑いながら、クリクリした目で僕をジッと見ている。鼻筋が通って相変わらずキラッと光る歯の美しさは健在である。やっぱり可愛い。

「もぉ〜お前わかるだろ?そんなこと俺が改めて言わなくても。」

「ぜ〜んぜん。さっぱりわからないわ。わからないったら、ちっともわからない。いったい私には何のことか?ち〜んぷんかんぷん。」

左右に首をふり、つぶらな瞳は明らかにいたずらっぽく微笑んでいる。

「おまえ。もう許さねえ。」

僕は、歩美に向かい海の中へダイブをして飛び込んでいった。

「あはは、捕まえてみなさいよ。」

歩美はメガネをつけると海中へ潜りこんだ。僕は後から追いかけていく。スマートな体型にスラリと伸びた手足を巧みに使い歩美は潜っていく。黄色い水着からの二つの小さな頂は少女から大人の女性への階段を昇っていることを確実に物語っていた。

海中は、一段と綺麗な別世界が広がり、僕たちを優しく招き入れてくれた。僕は、まるで浦島太郎となり海底にある竜宮城へ僕たちを案内してくれるのではないか?というワクワク感を味わっていた。真にこの透き通った海の中へヴォンベレスダイブ!

ゴールドキッズが揃うのは久しぶりである。僕たち三人は、しばらくの間、その場で海と戯れた。そして大いに遊び大いに騒いだ。岩から海へ飛び込んだり海の中へ潜ったり。

 限りなくヘトヘトになるまで遊んだ後、僕たちは一枚岩の上で川の字になり仰向けになっていた。空には数本の細長い雲。潮の香りに優しく包まれているのを感じる。岩の上で聞く潮騒は最高のBGM。一枚岩はまさに波間に漂う揺り籠であり小さな陸の孤島の海上ページェント。

「お前、髪切ったのか?」

「そうよ。似合う?」

小さく笑いながら歩美は答えた。以前の長い髪の方が良かったのだが口には出せなかった。

「お前、引越して来る前は、ここの住人だったんだな。ちゃんと隠さず俺たちに言えよ。」

「あれっ?前、言わなかった?」

「聞いてねえよ。」

まあ父ちゃん、母ちゃんに聞いてさえいれば判った話であるが、敢えて僕たちは不思議なくらいに聞いていなかったのだ。

「そう?ごめん、ごめん。遠かったでしょ?ここまで来るのに。お父さん、お母さん何か言わなかった?」

「いや、父ちゃん、母ちゃんには内緒にして来たんだ。和樹と二人、ここまでヒッチハイクさ。」

「え〜?何、あなたたちヒッチハイクでここまで来たの?すごいわねえ〜近頃の若者にはないハングリー精神って奴よねえ〜。私も男に生まれたかったわ。うらやましい。」

僕たちが、ここまでヒッチハイクで来たことに本気で驚いている。

「言っとくが、お前も若者の一人なんだからな。わかってるか?」

「すまないねえ〜若人たち。わしのために。ほっほっほ。」

「ふざけるな。この若年寄り。」

僕たち三人は、大声で笑い合っていた。

その笑いはすぐに途切れて、しばらくの沈黙。

なぜか真剣に腹に力を込めて笑っていないシュールな和樹と歩美の姿があった。それは、今から起こる何かを予測していた?いや、ここまで僕たちが来た本当の理由が影でうごめいていたとも言える。

「歩美姉ちゃん。山田のおじいさんについて何か僕たちに隠していることないかい?」

和樹が、いきなり沈黙を打ち破った。いかにも確信をついたものを自分は持っているんだという物言いである。

そうか。そうだった。和樹には秘密にしていたことが、あったんだ。兄貴である僕には言わず、ずっと黙っていたこと。

いよいよだな。僕は身構えると共に、歩美の顔を見た。途端に歩美の顔から笑みが消えた。

急にそれは追求されている容疑者そのものの顔に変貌をとげていた。

「・・・」

沈黙が続いた。

「別に・・・山田さんなんて関係ないわ。」

「そう。ならいいんだけど。」

和樹が目の焦点を虚空に泳がしながら言った。

「何?私を疑ってるの?第一、私に殺しなんて出来る訳ないじゃない!」

「私に殺しなんて出来る訳ないじゃないって?」

「あなた達も知っているでしょ?あの日、私は風邪をひいていたのよ?あいつを公園へ誘い出す事なんて無理な状態だったんだから・・・」

それを聞いた和樹の顔が急に変わり何かに反応したようだった。

「ところで、ここは風光明媚ないい所だね。」

「・・・そう?」

明らかに和樹と歩美は、お互いの出方を探り合ってる。

「うん。すごくいい所。歩美姉ちゃんが持ってる敦子姉ちゃんの小型カメラでここの景色撮ったら綺麗だろうねぇ〜。こういうところは、ほんとに。」

僕は歩美の家を訪ねた時、彼女の机の上に置いてあった敦子の小型カメラを思い出した。

「・・・」

またもや、沈黙。さっきよりかなり長い沈黙である。

「さてと。もう行こうか。充分遊んだし。」

僕は、そう言いかけて体を起こした時だった。

「知っていたのね・・・あの家からカメラ持ち出したこと。」

歩美は、静かに和樹に話しかけた。

「うん。」

「どうして知ったの?」

待ってましたと言わんばかりの早口で和樹がしゃべり出す。

「以前、歩美姉ちゃんが、サッカーボールを取りにおじいさんの家の中に入って行った時あったでしょ?僕が歩美姉ちゃんを、呼びに家の中に入ったら縁側でスイカを食べていたよね?その後、家に帰ろうとして歩美姉ちゃんが立った時、ポケットから、小型カメラがはみ出ていたのを見たんだ。あの時、僕は気づいたんだ。あれって敦子姉ちゃんのカメラでしょ?僕知ってるもん。昔、敦子姉ちゃんと遊んだ時、写真撮って貰った事あるから。僕は何故おじいさん家に敦子姉ちゃんのカメラがあったのかその時は分からなかった。でも僕、気付いた事あるんだ。実はあの小型カメラの中に、敦子姉ちゃんの撮られては困る写真があったんじゃないの?」

「いえ、それは違うわ・・・」

消え入るような小さな声で歩美は答えた。手足が少し震えている。

「ほんとに?僕はてっきりあの小型カメラのフィルムを現像したら敦子姉ちゃんが写っていてそれが原因で自殺した事を歩美姉ちゃんが知り、復讐を考えたんだと思ったよ。」

山田老人宅

「失礼しま〜す。ごめんくださ〜い。誰かいませんか?」

歩美は、申し訳なさそうに、小さな声でこわごわと山田老人の家に入っていった。

「あの〜う。サッカーボール取りにきたんですけど〜。山田さ〜ん。」

縁側は、全開に開け放たれていた。誰もいる形跡はなかった。無用心この上なかった。

どこなのかなあ〜?サッカーボール。どうやら植木鉢を割ることなくサッカーボールはどこかに入って隠れているらしい。こうなったら、叱られる前に早くサッカーボールを見つけて帰ろう。

どうやらこの状況で山田老人が自分の大好きなイチゴミルクのカキ氷を出してくれることはまずないだろう。承君に騙された訳ね。まったくもう〜

サッカーボールは何処を探してもなかなか見つからない。一体どこ?どこいったの?

歩美はキョロキョロするばかり。

一体どこにあるのよぉ〜?膝まずいて軒下を見た時である。

長方形に区切られた空間があり、そこには多くの予備の植木鉢群が積み重ねられていた。

その前に、サッカーボールはあった。

「あったあ〜。サッカーボール。よかったあ〜。」

歩美は、ほっと胸を撫で下ろした。なるほど、山田のおじいさん。いつでも植木鉢を壊されてもいいように、こんなところに予備の鉢を買っておいてあるのね。敵もなかなかやるもんだわ。そう思いながら、歩美はサッカーボールを脇に挟み込んだ。

シメシメ。これで何も無かったように帰る事が出来る。

「誰だ。お前。何で勝手に中に入っている。そこで何をしている!」

後方から矢継ぎ早に攻め立てる言葉の嵐。

「きゃぁ」

歩美はあまりにびっくりしたため、悲鳴と共にその場で飛び上がっていた。その拍子に脇に挟んであったサッカーボールを落としてしまい慌てて後ろを振り向いた。

腕にスイカまるまる一つを抱えて帰ってきた山田老人が、歩美の全身をくまなく目で追っていた。足元にサッカーボールが落ちている。

「何だ。サッカーボールを取りにきとったんか。そのことを早く言わないとわからんじゃろうが。」

今、言おうと思ったのにぃ〜。

「おぉ〜。そうだ。ゴールドキッズの端くれ。あれを返すからな。持っていけよ。」

そう言って山田老人は部屋へ入っていって、しばらくすると一台の小型カメラを持ってきて歩美に渡した。

あれ?これは確か・・・見覚えのある小型カメラ。

そうよ。間違いない。これは絶対、私のお姉ちゃんの持っていたカメラだわ。何でここにあるのよ?そう言えば、お姉ちゃん、電車事故で亡くなる日、誰とは言わなかったけど、誰かに写真を撮って貰うんだって言っていたっけ。え?それが山田のおじいさんだったっていうの?歩美は、その意外な組み合わせに少し驚いていた。

「上物だな。」

山田老人は、いやらしくニタッと笑うと歩美の顔をジロリと見た。

「今、ちょうど畑に行ってスイカを取ってきた所なんじゃ。食べていきなさい。」

「結構です。もう私、帰ります。」

「わし一人じゃ食えんから言うておるのじゃ。別に、あんたを採って食おうとしてる訳じゃないじゃろが。」

そう言うと山田老人は素早くスタスタと台所に行き、スイカをトントン音をたてて切っている。それじゃあ仕方ないか。カキ氷は諦めてスイカでも頂きますか。歩美はそう決心すると縁側に座り老人と二人、スイカをご馳走になったのである。勿論、それから和樹が呼びに来るまでの間、山田老人の戦後話の責め苦が延々と続いたのは言うまでもない。

「もう一回聞くよ。ほんとにそのカメラの中には、敦子姉ちゃんの撮られては困る写真は写ってなかったんだね?」

「・・・」

「和樹くどいだろ。歩美が、写ってないと言ってるんだから・・・もしもだ。もしも和樹の言うように歩美が犯人だったとして水筒の青酸カリは、どう説明つくんだよ?」

僕は聞いていて堪らず、歩美に助け船を出していた。

「わかった。そこまで言うのなら兄ちゃんに二、三質問するよ?いい?」

「ああ勿論だ。」

僕は、かかってこいと気合い充分に言ってみせる。

「兄ちゃん。山田のおじいさんが死んだ状況をもう一度思い浮かべてみて?どうだった?」

「そりゃあ、あれだよ。和樹。まずじいさんは公園に来てベンチに座り俺たちと二言、三言会話をした後、見学していた。そして水筒のお茶を飲んでそのまま項垂れて動かなくなっていた。気付いたら青酸カリ入りのお茶を飲んで死んでいた。」

「そうだね。そして不思議な点も色々あったよね?何だった?」

畳み掛けるように和樹の質問攻めが続くことになる。

「いつも俺たちのキャッチボールなんか見学しないのに、あの時に限って公園に来て見学していた点。そして息子さんの所に行くはずが三時間もの間、どこかに行っていた点。ん〜え〜っとぉ〜あっそうそうあとそれから朝から何回も水筒のお茶を飲んでいたのに最後の一口で死んでしまったという点。そして・・・」

僕は当時を思い出しながらゆっくり話していた。それを聞きながら歩美はピクリとも動かない。

「もういいよ。そんな所だよね。原点に戻るけど、もしこれが自殺だったとしたら?」

「ん?自殺?自殺なの?そんな事ないよ。」

「どうして?」

「だっ、だって俺と公園で話したじいさんの顔はとてもそんな素振りを示すような感じじゃなかった。お前も見てるから知ってるじゃないか?あの時のじいさんの顔は自殺をするような顔じゃなかったという事ぐらい・・・」

「そうだね。じゃあ、他殺という事を前提に考えるよ。まず僕が一番気になるのは何故おじいさんは最後の一口で死んでしまったのか?朝から何回も飲んでいたのにという点さ。絶対おかしいよね?そんな事。犯人はどうしたんだと思う?」

「う〜ん。そうだなぁ〜青酸カリをオブラートのような物に包んで水筒の中に入れておいたとか・・・」

「三時間もの間?そしてオブラートに包まれていた物が三時間後に溶け出したというの?そんなの絶対ない。そんなんだったらもっと早くに溶け出しておじいさんは死んでいたはずさ。」

「え〜っ!じゃあ、わかんねえよ。」

「じゃあ、三時間もの間、おじいさんは何をしていたんだと思う?」

「知らねえよ。どこかの建物にでも行っていたんだろ?きっと。」

「どうしてそんな事言えるの?ひよっとかしたら三時間もの間ずっと歩いていたのかもしれないよ?」

「お前、今は真夏なんだぞ?この真夏の炎天下の中、老人一人が三時間ずぅーと歩いてみろ?立派な日干しが出来上がっちまう。絶対無理。」

「そうだね。ということはだよ?一つの共通した犯人像というものが判ってこない?」

「ん?そうだっけ?えっ?それでわかるの?う、うっそぉ〜えっまじ?」

「おじいさんは毎週、孫の顔を見るのを楽しみにしていたよね?[今からそちらに行く]と連絡しておいたのに。そこまで楽しみにしていた事を中断して三時間もの間、何処かに行っていた。なぜ中断したんだと思う?多分ね。家から出た途中で犯人に会ったんだよ。だから、おじいさんは中断したんだ。そしてね。水筒に関しては途中で水筒の中に青酸カリを混入されたんだ。例えば、公園に来る直前とか。」

「え〜っ?本当かぁ〜?そんな事、犯人に出来るのか?よっぽど親しくない限り・・・」

「そこだよ。兄ちゃん。」

和樹はそれを聞いて思わず大声で叫んでいた。僕は和樹の迫力に飛び上がりそうだった。

「えっ?」

「それが盲点だったんだ。僕たちは犯人イコールおじいさんから縁遠い人というイメージが気付かぬうちに先行していたんだ。もしこれが日頃から心許せる人と仮定したら?気軽におじいさんから水筒を借りて青酸カリを混入させられる事が出来る人物だったとしたら?本当は孫に会うはずが、その人に会った事により楽しみである事を中断してまで心許せる人物だったとしたら?全ては普段から知っている親しい人がしていたと考えれば辻褄が合わないかい?そして犯人は公園で山田老人を殺す事により警察の目から自分を外させるシナリオがもうすでに出来上がっていたんだ。」

「そうか。そうだったのか・・・」

そっと歩美を見てみる。追い詰められたように、さっきからジッと下を見て動かない。

「そして実をいうと僕、見たんだよ・・・」

「見た?何を?」

「写真。」

そう言うとさらにこの少年探偵は続けた。

「歩美姉ちゃんがリストカットした日、敦子姉ちゃんの写真を・・・そこには敦子姉ちゃんの見られては困る写真が写っていたんだ。それが元になり死んだんじゃないかな?と僕は思ったんだ。それにさ、これは過去の言葉だから証拠としては成り立たないと思うんだけど、僕、聞いちゃたんだよ。リストカットの時に、歩美姉ちゃんが、[お姉ちゃん、可哀相。あんな奴に騙されて。私が復讐してやったからね。]と意識朦朧としている中、言っているのを。」

「・・・」

僕たち三人に重たい空気が取り巻いて辺り一面、支配する形となった。

何ということか?僕が歩美のリストカットで怒って歩美の家を飛び出した時、和樹は歩美からそんな重要な言葉を聞いていたのである。

「歩美、今、和樹が言っていたこと、本当なのか?」

「・・・」

「だから、片桐の刑事さん。来たんだと思うよ。」

「えっ?」

歩美は驚きの声をあげていた。急いで海の家に向け視線を送る。

「多分、水筒に歩美姉ちゃんの指紋がついていたんだよ。」

そっと海の家に向けて片桐刑事を見てみる。僕たちを、ずっと監視している姿は変わってはいない。僕たちが、今、何を話しているのか?知っているとでもいうみたいに、じっとこちらを向いて睨んでいる。

「それにさ。歩美姉ちゃんは、さっきこの海岸で[あいつを公園へ誘い出すなんて無理な状態だったんだ]って言ったよね?歩美姉ちゃんは、おじいさんが公園へ誘い出されたなんていう事を何で知っているの?」

「あっ!」

僕は思わず叫んでいた。

「とても犯人で無い限りそんな事は言えないはずさ。あいつと言う位だから相当憎んでいるんだね。もういいだろ?歩美姉ちゃん。僕たちに、そろそろ本当の事、話してよ。」

和樹が、歩美に詰め寄る。少年探偵が目の前の殺人者を追い詰めた瞬間だった。

「そうなのね。そこまで追い詰められていたら、言うしかないわね。」

歩美は、一つ大きな深呼吸をすると、溜息交じりに言った。

「山田のおじいさんを殺したのは私よ。」

「そうだったのか。」

僕は、来るかも知れない報告を改めて聞いてショックで思わず俯いてしまった。反対に僕とはうって変わって歩美は観念したように、そして和樹は予想でもしていたように両者共、冷静そのものである。

「卑劣な悪い奴なの。山田って奴は。あれから、私はカメラに入っていたフィルムを現像に出した。現像できた写真を見て最初は、単なるエロじじいが撮った写真なんだと思った。

ところが一枚、二枚と進めていくうちにそれは、お姉ちゃんの写真であることに気がついたの。びっくりしたわ。そんなことだとは思っていなかったから。非常にショックを受けた。これによってお姉ちゃんは、自殺の引き金になったんだ。この写真のために。あの時言った[上物だな。]という意味がその時、ようやく理解できたのよ。そう思ったら、あの男に怒りの炎が沸々と湧いてきた。殺してやる。絶対に。誰の手も借りず、この私の手で・・・」

「でもちょっと待って。山田老人は現像してないのに[上物だな]って言ったんだよね?どうしてそんな事がわかるっていうの?」

和樹は矛盾を感じたらしく歩美に詰め寄る。

「だってあいつがあのカメラを使って撮影したのよ?何とでも言えるじゃない。」

「そうだぞ。和樹。多分、山田のじいさんにはすでに目に焼きついているからそういうふうに言うことが出来たんだよ。」

歩美と僕の考えに和樹は、なんとなく納得がいかないといった感じである。

「もし仮にだよ。カメラ自体のことを[上物だな。]って山田のおじいさんが言っていたとしたら?」

「・・・」

成るほど。それもあり得ることかもしれない。

「そこで私は、殺人をいつしようか?と考えた。」

歩美は和樹の今の言葉に構わず話しを続けていた。

「いっそやるなら誰かの見ている前で殺してやりたいと思ったの。」

「それが、あの公園の俺たちの前となったということか?」

「そうよ。」

「どうして、そんなふうに思ったんだ?」

「お姉ちゃんは、人知れず静かにあいつの前だけで死んでいったの。色々言いたいことがあったはずよ。でもそんなこともさせて貰えず静かに死んでいったの。私は、それを知ったら悔しかった。だからその反対に誰かに見世物にさせてあいつを殺してやろうと考えたの。」

「あの時、お前は、家の中にいて風邪ひいていたじゃないか?」

「ええ、風邪をひいていたわ。でも承君たち、お昼に公園で謎のおじさんを待ち伏せしてやろうと計画していたでしょ?その時よ。それを聞いて私が犯行を決行してやろうと思ったのは・・・それまでいつ犯行を決行してやろうか?見通しがつかなかった。ちょうどそんな時に上手く私も風邪をひいたし、承君たちの公園に集まるというタイミングがぴったりと合うチャンスが到来した。こんなチャンス二度とないと思ったわ。だってちょうど誰にも怪しまれない時間の空白が出来るんですもの。私が風邪で寝込んでいるから皆の目をくらます事出来るでしょ?今しかないと思ったの。ギャラリーが多ければ多いほどあいつの無様な姿をさらし者に出来ると思った。」

「青酸カリなんて毒物、どうやって手に入れたんだ?」

「お母さんの部屋から偶然に見つけたの。タンスの奥のほうに隠すように置いてあった。それを見た時、思ったわ。お母さんは、いつか死のうと考えていると・・・」

「じゃあ歩美姉ちゃん、おじいさんと三時間もの間、何処に行っていたの?」

「承君たちが朝、帰っていった時、私はあの後すぐ行動をしようと考えた・・・」

歩美は和樹の質問に答える前に、当時を振り返るように語り出していた。

「急いで着替えて、あいつの家の前で待っていたの。ちょうどその日が隣町の息子さんに会いに行く日だと私も知っていたから。そしたら現れたわ。何も知らず私の前に。私は家の前で声を掛けたの。[どこかへ行って私と話しませんか?]ってね。絶対私に付いてくると思った。普段から寂しそうにしていたから。いつもいつも誰かと話したがっていたし・・・」

「そんな老人の弱い気持ちに付け込んで何になるんだ?可哀想だとは思わないのか?」

僕は堪らずに叫んでいた。あの優しい山田老人の姿が思い浮かんだからだ。

「私の大切なお姉ちゃんはあいつに脅迫まがいのような事をさせられて死んでいったのよ?そんな奴に同情する余地はあると思うの?」

「・・・」

「あいつの前でお姉ちゃんは恥辱の思いを受けたの。寧ろあいつの方よ。弱い気持ちに付け込んだのは。私はそんなあいつが許せなかった。しかもこの世に何も無かったようにノウノウと暮らしていること自体、私には理解しがたいものだったわ。思い知らせてやる。復讐してやる。もはやそれ以外、私の頭の中は無かった。私達は幽霊屋敷に行ったの。」

「そうか。幽霊屋敷か。」

「そうよ。あそこは誰の目も届かないし抜群の所だと思ったわ。私達はそこで色々なことを話した。あいつがそこで何気なく見せる楽しさからくる笑い声。全て私にとって苦痛以外の何ものでも無かった。殺した張本人がこうしてこの世の中の出来事を楽しそうに何故笑えるの?それは私の怒気の炎に油を注ぐようなものだった。そうしてもうすぐ時間だとみるやあいつに言ったの。私達ゴールドキッズがいつも遊んでいる公園行きましょって。」

「青酸カリは、どうやって水筒に混入したんだ?」

「簡単よ。和樹君の言うように公園に到着する直前に、あいつから[喉が渇いた]と言って水筒を借りて、混入したのよ。そしてあいつに水筒を返した時に私は言ったわ。[ちょっとトイレに行ってくるから、先にあの公園のベンチへ行って座って待っておいてね]って。その後、私は一人、公園の影から様子を伺っていたの。そして、あいつがお茶を吐き出して動かなくなったことが確認できた。そして家に帰ったのよ。」

「そうだったのか。」

三時間もの間の山田老人の行動。突然、公園に現れてベンチに座っていた事。水筒に毒を混入された事。普段とは違うそんな山田老人の行動自体が不可解に思えてならなかった。でも、山田老人という人のいい人間だったからこそ他人に上手く操られたという事も考えられる。復讐の名の元に執行された人の良さに付け込んだ殺人。この事件は、そう言えるのかもしれない。

「これが私があいつを殺した全貌よ。」

「やっぱり歩美姉ちゃんが殺していたんだね。」

「和樹、お前はどこで歩美が怪しいと思い始めたんだ?」

「勿論、歩美姉ちゃんの[お姉ちゃん、復讐してやったわ。」という声を聞いたリストカットの時さ。それと僕以外にもそう聞いた人物がもう一人いる。」

「えっ?一体それは誰なんだ?」

「リストカットして僕たちが帰ったあと、歩美姉ちゃんの言葉を、僕と同じようにもう一人聞いた人物。」

「それって、もしかして・・・」

「そうだよ。歩美姉ちゃんの母親さ。我が娘が殺しを犯したことを知った歩美姉ちゃんの母親は、最初、誰の目にも届かない所に逃げようと考えた。でも、所詮、女の細腕で暮らしていくには無理がある。だから生まれ育ったここを選んだという訳さ。」

「そうか。そうだったのか。それで次の朝、早くに予定もしていなかった旅行に出かけたという訳か。」

僕は、言い表せない感情に頭の中がぐるぐると回り続けていた。歩美は親友であり、いとこである。でもその歩美に殺されるほど、あの山田のじいさんは敦子姉ちゃんに向けて恥辱の思いを与えていたんだ。そうした事実があったことが存在すること事態、とても意外であった。

「僕たちがこうして、ここまで歩美姉ちゃんに会いにこなかったら、僕たちは永遠に歩美姉ちゃんに会うことは出来なかったと思う。」

「変なこと言うなよ。和樹。そんなことないだろ。それっていかにも・・・それって・・・まさか・・・」

僕は、それ以上、言葉が出なくなってしまった。そっと隣の歩美を見てみる。

隣を見た僕はさらに驚いた。歩美は明らかに異常になっていた。気のせいか一回り歩美が小さくなったように感じる。急に年老いた歩美がそこにいる。

まるで、竜宮城から帰還した浦島太郎が重箱を開いた時みたいに・・・

よく見ると歩美は下を向き膝を抱えブルブルと震えている。

「そうなのか?歩美?」

僕に聞かれた歩美は急に、わっと泣き出した。

「心中自殺・・・」

急に僕は、歩美がリストカットした時みたいにまた怒りがこみ上げてきた。

「何でだよ。何でお前は、いつもそうやって命を粗末にしようと考えるんだ。」

堰を切ったように僕は歩美に言い寄った。

「兄ちゃん、やめなよ。ここで責めるのは。」

「だってこいつは何かと言うと、死ぬことを考える。そんな弱くてどうするんだ。」

「兄ちゃん、歩美姉ちゃんは兄ちゃん程、強くないんだ。」

「いいか、俺は前にも言ったけど、こいつには、家庭状況が恵まれない分、強くなって貰いたいんだ。お前は、それがわからないのか?」

僕は前回同様、涙がこみ上げてくるのがわかった。

「そりゃわかっているさ。歩美姉ちゃんもそれは充分にわかっているよ。でもね、兄ちゃん、人間は機械じゃないんだ。血も涙もある心の通った人間なんだ。弱さがあってこそ人間なんだよ。」

和樹も必死になって歩美を庇おうとする。

「そんな事ない。こいつは、わざと自分の弱さをひけらかして楽しんでいるんだ。」

「違うよ。兄ちゃん。歩美姉ちゃんは、歩美姉ちゃんなりに、虚勢を張って頑張っている。兄ちゃんは僕たちが標準にいるから気がついていないだけ。歩美姉ちゃんは僕たちみたいに標準に合わせるだけでも並大抵の事じゃないんだ。僕は知っているんだ。ここでは旅行者のように色んなものを食べたくても歩美姉ちゃんにはお金の事で食べる事が出来ないってことを・・・だから歩美姉ちゃんは、さも食べているように装ったりとかしてたんだ。兄ちゃん、歩美姉ちゃんと電話で話していてそれに気がつかなかったのかい?

兄ちゃんには何で、そんなことする必要がある?と思うかもしれない。それはね。少しでもいいから普通の人たちと一緒になりたいという願望が歩美姉ちゃんの中にはあるんだ。ねえ、そうだよね?歩美姉ちゃん?他の人には、そんなちっぽけな事と思うかもしれない。でも、歩美姉ちゃんにしてみたら、自分に出来る最大の虚勢なんだよね?兄ちゃん、僕たちはそれを素直に受け止めてやろうよ。僕たちが思っている当たり前のことでも歩美姉ちゃんにしてみたら二倍のエネルギーを使うことになる。それをわかってやろうよ。」

「和樹。お前は前、俺に言った言葉覚えているか?」

「えっ?」

「なんて言ったか俺は覚えているぞ。こいつは、また優先順位を間違えている。あのリストカットの時のようにまた今、死のうとしている。」

「兄ちゃん、それは違う。リストカットは生きたい、もっと生きてみたいと自分を主張する証であり、魂のシグナルなんだ。はち切れそうなほど辛い自分の心を唯一逃がしてあげる為の解消方法なんだよ。歩美姉ちゃん、ごめんね。兄ちゃんは、こう言ってるけど歩美姉ちゃんは何も悪くないんだよ。」

「何が証なもんか?何が解消方法なもんか?だったら何故、痛い思いをして自分の体を痛めつけるというんだ?こいつは死のう死のうとしているんだぞ。そんな奴に、そのままにさせておいていいはず無いじゃないか。和樹、覚えているか?そう。以前、あれは確か台風の日。お前は俺にこう言ったよな?[人間は死ぬという行為をするんだったら、その前に色んなことをして回避する手段が使えるのに。それが使えるのに何故、死ぬという大胆な考えが先行してしまうんだ?]と・・・覚えているよな?まさか忘れたとは言わせないぞ。あれは嘘か?あれは嘘だったのか?和樹?」

僕は、あくまでも冷静だった。

「それは、・・・」

「言い返せないじゃないか?和樹。人間は弱くちゃ駄目なんだ。弱くちゃ何も出来ない、でくの棒になっちまうんだ。叩きのめされても跳ね返すだけの強さが無かったら、長いものに巻かれちまうんだ。お前はまだ判っていない。トラックの運ちゃんが言っていただろ?一人の人間が死んだことにより周りの人間がどれ程、影響するのか?ということを。俺は、こいつには・・・」

「もういい。もういいからやめてぇぇ〜」

それを聞いていた歩美が急にその場に立ち上がった。

「確かにそうよ。和樹君の言うとおり。貧乏人には貧乏人にしか判らない苦労というものがある。標準にもっていく為の大変さなんて並大抵の事ではないわ。強く生きなくちゃいけないと思っていても、どうしてもその状況から抜け出せない事だって山ほどあるわ。」

「そんな時、俺たちに言えばいいじゃないか?隣に住んでいるんだし。いとこなんだし。」「あなた達には、判らないわよ。」

「なぜだ?」

「家の電気が使えなくて、真っ暗な部屋の中、一本のろうそくで本を読んだ事、あなたはあるっていうの?一日の食事も、一枚の食パンを家族で分け合って食べる事しか出来なかった事、あなたにはあるっていうの?」

「・・・」

歩美はそこまで生活が切迫していたんだという事を初めて知り、僕は言葉を失った。

「隣の家から見えるあなた達は実に楽しそう・・・私はそれを見てとても羨ましかったわ。あなた達みたいに一家そろって笑いの絶えない家庭の中に私は入りたかった。」

「気にせず俺たちの家の中に入ってきたらよかったじゃないか?」

「私が入れる訳ないじゃない。そんな中に私なんかが入ったら邪魔者じゃないの。」

「そんな事ないさ。」

「いいえ充分そんな事あるの。あなた達には大丈夫でも私は大丈夫じゃない。仮にそんな中に私が入ったら自分自身、息が詰まってしまうわ。」

「・・・」

そうなのだ。僕はいつも自分の家から見える歩美の家の事を基準にしていたが、その反対で歩美もこちらの家の状況というものを遠くから羨ましそうに見ていたのである。歩美に言われて気づいたというのが本当の所である。

「私だって家族が揃っていれば、こんな事にはならなかった。以前はあなた達に負けない位の明るく笑いの耐えない家庭だったのよ。でもお父さんが死に、お姉ちゃんが死んでからというもの悲惨だった。まさに私達親子はバラバラになり家庭崩壊寸前だった。私はそれからというもの明かりも無い自分の部屋で独り膝を抱え過す日が多くなった。暗闇と孤独が支配する毎日。本当なら、こんなはずではなかったのよ。こんなはずでは・・・全ては家庭を崩壊したあいつが憎かった。どうしても許せない。殺すまでは・・・私はそう考える様になった。でもこれだけは判ってほしい・・・」

歩美はそこまで言うと急に声が震えだしていた。

「私は本当は精一杯生きたい。強く生きてみたいの。リストカットは和樹君の言うとおり本当は生きたい証を示したいからやったの。お母さんと一緒に幸せに生きたかった。それを判って。」

「歩美姉ちゃん・・・」

「歩美・・・」

「私は、・・・私は出来ることなら跳ね返したい。何でもかんでも力の限り跳ね返したいのよ。でも・・・でも今となってはそれが出来ないの。」

「どうしてだ?どうしてなんだ?歩美。」

僕は歩美に向け思い切り叫んでいた。

「私は・・・私は・・・私は人を殺してしまった。」

そう言って歩美は思い切り息を吸い込んだ。

「私は殺人者なのぉぉーお!!!」

腹の底から大地、海底を揺るがすほどの声が歩美の口から周りを波動させて大気を揺さぶった。それはまるで地平線の彼方まで揺るがすほどの衝撃波となり僕たちのいる一枚岩から、円を描くように広がっていった。歩美の放ったバズーカ砲は強烈すぎる位、強烈で、あらゆる方向にいた生物の鼓膜を狙った。飛ぶ鳥も落とす勢いとはこれまさに。水中にいたサメもクジラも水面に飛び跳ねていたとはこれまさに。数秒間、あらゆる生物の耳の中は、いつまでも歩美の声がコダマしていた。

海の家にいた人間、全員の目がこちらを向いて黙って静止している。彼らからしたら、僕たち三人は今、注目の的だった。周りはシンと静まり返っている。

さっきまで聞こえていた波音さえも、どこかに消し飛んでしまった。

時間が止まったのではないかと思うほど周囲は静止し続けていた・・・

もうそこにいるのは怨み積もった殺人者では無く、いつものやさしい歩美であった。やがてポツリポツリと歩美がしゃべりだす。

「私が、おじいさんを殺した日の夜は最悪な時間だった。寂しくて震えながら一夜を一人で過ごしたわ。翌日、承君達が訪ねてきても殺人を犯した自分にとって人に会うのが怖くて誰とも会いたくなかった。前日にひいた風邪を口実に断るしかなかった。その夜、お母さんが帰ってきて私がおじいさんを殺した事を知った時、私はお母さんと二人、声をあげて泣き叫んだわ。もうこの土地には居られない。お母さんの生まれ故郷に帰って二人で心中自殺しようと・・・髪を切ったのもそう。私は覚悟を決めて髪を切りこの日間賀島に来たの・・・」

[そうか・・・]

僕は虚空をぼんやり見つめ心の中で力無くそう呟いた。

僕は歩美の事は、いとこであるという事。いつも一緒にいるという事。それらの理由から他人よりもよく判っているつもりだった。あくまでもつもり・・・だった。でもそれがだ。実際の所、歩美のことに何もわかっていない自分がそこにいたんだ。

石段二百段の帰り道、歩美は僕の自転車の後部座席で僕に向け[誰にでも秘密はあるものよ。]と言った。今、その言葉は僕の体に重くのしかかっていた。

「歩美姉ちゃん、砂浜にいる刑事のおじさんに自首できる?」

しばらく続いた沈黙を打ち破ったのは和樹だった。

歩美は、決心したように黙って頷いた。海の家に顔を向け、じっと見つめている。そこには、決して弱くなどない歩美の姿があった。

「じゃあ、行こうか。」

その後、僕たち三人は砂浜に向かい泳いでいた。

ここで僕はどうしても話しておきたいことがある。僕がここまで自殺というものに憤りを感じるのは何故か?母ちゃんの教えてくれた事件もあるがそれ以外に和樹の知らない事件があったからだ。

それは先に話した鈴木の父親の自殺の事である。その後の鈴木がどうなったかは和樹は知らない。補足となるが、実は鈴木に関してはまだまだ悲劇が続いたのである。それを今から話しておきたい。

僕は今でも鈴木のことを思い出すと胸が痛む。何で僕だけでもそれに気付き救ってやることは出来なかったのか?と・・・

それからの鈴木は母親との二人生活が始まった。この世に二人残されてからのあいつのそれからの人生は実に壮絶を極めた。これから聞いた事は僕が後から皆に聞いた事である。

父親が亡くなってからというもの、鈴木の母親は今までのパートの仕事を辞め全く働かなくなった。愛するものに先立たれたことによるショックで全てのものを消極的に考えるようになったのである。毎日、酒とパチンコに溺れる日々が続いたそうだ。悲しみに明け暮れる毎日でアルコールでしか気を休めることが出来なくなってしまっていたという。一ヶ月もするとそんな生活に潤いが生まれるはずも無く次第に鈴木の家庭は生活に困窮していった。やがて住んでいたアパートのガス、電気、水道が全て止められ鈴木は服の洗濯もして貰えず風呂にも入ることが出来なくなっていた。ちょうどそれと時期を平行してクラスのみんなが鈴木のことを臭いと言い出した。

そんなある日の事。クラスでの授業が急に自習になったときの出来事である。鈴木の周りを取り巻いていた女子たちが堪らず騒ぎ出した。

「何か臭いわねえ。」

それはゆうに鈴木を皮肉ったものに過ぎなかった。

「お〜臭い。臭い。」

突然、それを聞いた男子どもが便乗してそれにあやかった。

「あぁ〜」

いきなりである。それを聞いた鈴木が叫びながら急に机に突っ伏しわんわん泣き出した。

「お前なあ〜。」

聞き慣れたいつものうるさい声。スピッツである。スピッツ福地である。

「お前なあ〜鈴木。そうやって泣けばいいってもんじゃねえんだよ。お前、男だろ?第一、そうやってみんなからイジメられるのもお前に原因があるんだぞ。服洗え。風呂入れ。この汚らしい豚めが。」

僕は授業中なのに、その言葉を聞いて、スッと立っていた。僕は迷わず福地の机の前まで歩いて行き福地を睨んだ。

「なんだ?お前?」

福地が、いぶかしげに僕に言う。

「俺の前で今言った言葉、もう一回言ってみろ。」

僕は何のためらいもなく福地に堂々と挑むように言った。

横向きに椅子にもたれ掛かっていた福地は体勢を入れ替え真っ直ぐ向くと先程の言葉を繰り返そうとしていた。

「お・・・」

ガゴォーーン

教室中に響き渡る鈍い殴打音。

僕は福地の左頬を思い切り殴っていた。面白いように決まった右ストレート。

福地は僕の右ストレートに頭を左から右へと大きく振り回されそのショックによって前の机に上体を倒し気絶していた。

鈴木だって好きで服の洗濯をしない訳じゃあない。風呂に入らない訳じゃあない。鈴木なりの事情があるに違いない。そう思ったから僕の体は自然に動いていた。

誰であろうと同じ学び舎で勉強するもの同士、協力もせず助け合いもせず思いやりを持たない奴は僕は断じて許さない。

僕は知らなかったが、鈴木は親父が死んだ後からその一件があった時まで度々、みんなからイジメを受けていたらしい。

服を隠されたり、下校途中に川に放り込まされたりしていたそうである。

それから、程なくして鈴木は転校していった。どこに行ったのかも全くわからない。いきなりの出来事だった。次の転校先の学校も一切言わず、鈴木は僕たちの前から突然に消えていった。まるで逃げるように・・・

それから一ヵ月後、本当かどうかわからない。リアス式海岸になった所で、親子共々、無理心中を図ったという噂が流れたのは・・・

これはまさに、父親の自殺というたった一つのことが起爆剤となり鈴木の家庭を崩壊した出来事に過ぎなかった。たった一人。しかも鈴木の父親の自殺から始まってしまった連鎖反応。その背後には結果的に、実に様々な人間模様が織り成されていた。確かに僕は、自殺者に対して厳しすぎるのかもしれない。でも僕は思うんだ。残された人達の事を・・・周りに残された人達は、突然に苦労を背負い込まされ、思いもつかない程の影響を受け、同じように苦しんでいく運命にあるんだという事を、僕は自殺しようとする人に、少しでもいいから判って貰いたいと・・・


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